大和但馬屋日記

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馬鹿も休み休み言ひ給へ

誤字等の館 づつ - Google 検索で検索があり、確認したらこんな記事があつた。以前に誤字等の館:少しづつのことをいい加減にしか取上げなかつたけれども、今回のがまた困つた内容であると思はれたので改めて真面目に批判する。

「少しづつ」と「少しずつ」との使い分は、少しづつではなくて、少しずつですか。たとえば、「続く(つづく)」は「つつく」と、「つすく」の2つを発音してみて、前者が近いから「つづく」とする。「竹筒(たけづつ)」も同様に、「たけつつ」と、「たけすつ」を発音してみて、前者が近いから「たけづつ」とすることで確認できますが、「少しづつ」と「少しずつ」との確認を前記の方法でやってみると、「少しつつ」と「少しすつ」となり、前者に軍配が上がってしまいます。どのような方法で確認したらようのでしょうか。

「竹筒」のように、「連濁」によって濁音となったものは、清音化することで確認できます。
「三日月」は「つき」だから「みかづき」、「黒酢」は「す」だから「くろず」、といった具合ですね。
ただし、「稲妻」が「いなずま」でも許容されているように、「確実」な判定方法とはなりません。
「発音が近いかどうか」という観点だけで確認するという方法については、聞いたことがありません。
そのような方法を、どこで覚えたのでしょうか? オリジナルですか?
その方式では、ことごとく「つ」に軍配が上がってしまうような気がします。
「図鑑 (ずかん)」も「泉 (いずみ)」も「親不知 (おやしらず)」も、「ず」ではなく「づ」になってしまうのではないでしょうか。
「ぢ」や「づ」の使い方はルール化されているのですから、「確認法」などに頼らず、しっかりとルールを理解することが近道かと思います。

前半の、Rudyard氏に寄せられた意見が的外れであることはいふまでもない。しかし、それに対するRudyard氏の返答もまたとても褒められたものではない。
前半の「濁点を取つて発音してみて、近いものを採用する」といふ手法はRudyard氏が「聞いた事がない」とコメントしてゐる通りで、端的にいへば間違つた方法である。ただ、これは二語の連濁を切離して考へるといふアプローチをその人なりに表現したものであらうから、発想として遠いところにある訣ではない。ただ「つつく」と「つすく」などとやつてしまふから問題。
といふか、最初の質問をした人に対する適切な答へは、「辞書でその言葉について調べなさい」で十分だらう。いちいち調べるのが面倒なのであれば、その語の成立ちについて知ることだ。「稲妻」が「いな」と「つま」、「三日月」が「三日目の月(ついでに月齢や陰暦についても知るとなほよい)」、「泉」が「出づ水(いづみ)」であると知れば、日本語が日本語なりに合理的に育て上げられてきたことが分るだらう。そして、Rudyard氏が認めるやうに、「ず」と「づ」で迷ふやうな局面で「つ」に軍配が上ることが多いことを知り、さう書けばよい。
きちんと語の成立ちについて意識すれば、「親不知 (おやしらず)」も、「ず」ではなく「づ」になってしまうなどと書いて要らぬ恥をかくこともないだらう。といふかRudyard氏は言葉を種にサイトを作つて書籍化までするくせに辞書すら引かない様なのである。全くたちが悪い。
一往ものぐさなRudyard氏の為に説明するならば、「おやしらず」は「親を知らない」といふ意味の語句であり、「しらず」の「ず」は打消しの助動詞「ぬ」の連体形であつて、決して「づ」になることはないのです。かういふことを知つておけば、「泉」の語源に含まれる「出づ」と「出ず」も、前者は「いづ」後者が「でず(いでず)」と読み、それぞれ正反対の意味であることも自づと通じませう。これを「現代仮名遣い」に依つてどちらも「出ず」とやつてしまふと訣が分らなくなる。
まあ、斯くも複雑怪奇で面倒極まりない「現代仮名遣い」でも便宜的に使ふ分には仕方がないといへよう。さういふ世の中なのだから。オレだつてこの日記以外では「現代仮名遣い」を使つてゐる。しかし、だからといつて「ぢ」や「づ」の使い方はルール化されているのですから、「確認法」などに頼らず、しっかりとルールを理解することが近道かと思います。などと嘘を書いてはいけない。Rudyard氏本人も直前にただし、「稲妻」が「いなずま」でも許容されているように、「確実」な判定方法とはなりません。と書いてゐる。「現代仮名遣い」の中にすら、確実な判定方法は示されてゐない。内閣告示には次のやうにある。

なお,次のような語については,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として,それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし,「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。

この程度の曖昧な基準しか示されてゐないのだ。現代人とて「中」とか「妻」などの漢字を普通なんと読むかくらゐ知らない筈がなからう。「現代語の意識」といふが、漢字を用ゐる限り日本人は言葉の成立ちを暗に意識しつつ言葉を操るのである。決して無意識に、ではない。
そもそも、Rudyard氏の「「ぢ」や「づ」の使い方はルール化されているのですから云々」の記述を正しく適用すると、歴史的仮名遣ひを知ることが一番の早道といふことになる。訣の分らないルールに拠らずとも十分に理解し易かつた仮名遣ひが、例外に例外を重ねたパッチだらけの「現代仮名遣い」によつて曖昧なものにされてしまつたといふのが実際なのだから。
蛇足ながら、内閣告示の現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの云々は、漢字廃止を唱へた表音主義者の論理そのものであり、日本語の利用実態に即さない不合理としか言ひ様のない発想に基いてゐる。閑話休題
話を核心に戻さう。Rudyard氏の過ちは、最初に記した誤字等の館:少しづつの方に明確に現れてゐる。その過ちとはは「現代仮名遣い」が正しく「歴史的仮名遣い」が誤つてゐると断じてゐること、ではない。言葉に「お上が決めた正しいルール」が存在すると思ひ込み、その基準から外れたものを「誤り」であると断ずる考へ方こそが問題なのである。おまけに、その依拠とする「お上のルール」がどのやうな性質のものかについては一切考慮しないのであるから、危険ですらある。氏のやうな考へ方がある限り、仮に現行の「現代仮名遣い」が「歴史的仮名遣い」と入替つても同じことだ。
以前にも取上げたが改めて引用する。

そういった「なんとなく」をそのまま受け入れる風潮、杓子定規にルールを押し付けて否定することをタブーとする時勢が、今の時代にはあるように思えます。
このまま「づつ」が勢力を拡大していけば、やがてそれは「日本語の乱れ」から「変化」のレベルへと昇格します。
言葉は時と共にうつろうものですから、「変化」に抵抗する努力は詮無きものです。

「現代仮名遣い」は表音主義者によつて漢字廃止までの中継ぎとして「なんとなく」決められた当用漢字と共に制定されたものであり、そのやうなルールを杓子定規に押し付けて否定することをタブーとしてゐるのは他ならぬRudyard氏自身である。自己矛盾も甚だしい。言葉は時と共にうつろうものですから、「変化」に抵抗する努力は詮無きものですとは最早どの立場から発せられた台詞かも分らないが、戦後すぐに制定された「現代かなづかい」こそが言葉が時と共に移ろふことを明確に否定した*1ものであることは論ずるまでもない。それが後に「現代仮名遣い」に改定されて「歴史的仮名遣い」への態度を幾分なりとも譲歩したのは何故か考へてみて頂きたい。
誤解され易さうなことだが、私のやうな者が「現代仮名遣い」を批判し時にその撤廃を唱へるのは、「歴史的仮名遣い」の方を正しいものとせよといふ意味でさうするのではない。どんな形であるにせよ、政府が勝手に言葉に制限を加へ、正しいものとそれ以外といふ区別を作るなといつてゐる。「現代仮名遣い」の出来が悪いのも勿論批判の対象ではあるが、出来が悪いのはそもそも当然の帰結である。これを出来の良いものに直せば済むといふ話では、決してない。
かなづかひや漢字制限の成立ちが如何なる実情のもとに行はれたかを知るのに良い本が最近出版されたのでここでも宣伝しておく。

学校では教えてくれない日本語の秘密

学校では教えてくれない日本語の秘密

これを読めば雑学的な通り一遍の知識は得られるだらう。専門的な内容では全くない気楽な本なので、「私の国語教室 (文春文庫)」には手を出しづらいといふ人にもせめてこちらを一読してみてほしいと思ふ。

追記

また、言葉の間違いが現代にのみ発生するなどということはあり得ません。
昔の人が間違えることだって、多々あるはずです。
現代より教育レベルの低い時代なら、かえってその可能性は高くなるでしょう。
そして、閉鎖された村のようなコミュニティでは、その間違いが近隣住民全域に伝播しても不思議ではありません。
間違いに端を発した言葉遣いが、そのまま「方言」として定着することもあるかもしれません。
よって、この議論において「昔からそういう使い方をしていた」という主張には「価値がない」と私は思います。
ただし、「間違いと決め付けるのは疑問」という姿勢自体は、良いことです。
ものごとを色々な角度から見る習慣を持つことは、非常に重要です。
にもかかわらず、人の言うことを鵜呑みにせず、自分の頭で考えることのできる人は、実はそう多くないという気もします。
問題は、そこで「論理的な思考」ができるかどうか。
そして、得た情報を吟味する能力を磨いているかどうか。
他人の口車にあっさり乗ってしまうような浅慮では、結局何も分からなくなってしまうでしょう。
世の中、「正しい」と「間違い」の二つだけが答えというわけではありません。
「場面によって、どちらともなる」ことも、あるのです。
その場合、「前提条件」の認識が一致しない限り、結論も一致することはありません。
ときに繰り広げられる「不毛な議論」の中には、こういった事情が理解されていないケースが多々あります

その「気づき」、それこそが大事だと私は思います。
「なんでかな?と思う」、「辞書で調べる」、そういったことができるかどうか。
それは、ひとつの「才能」と言って良いかもしれません。
なぜなら、それが「できない」人が、現実には結構多いからです。
それが「できる」人は、自然と「間違えること自体」が少なくなります。
その上、「調べる」という過程を通して、間違えたことが「成長」につながります。
「気ずく」などの誤字を放置する人は、それが「できない」人である可能性があります。
うまく変換されないことに気づいても、変換単位を区切り直して無理矢理変換してみたり、ひらがなのままにしてみたり。
自分の知識には一切疑いを持たず、むしろ「変換プログラム」の方を疑ってしまう人も。
そんな人は、成長の機会を自ら放棄し、ずっと恥をかき続けることになるでしょう。

云々。
Rudyard氏の文章を読んでゐると、「各論賛成、総論反対」といふ気分になつてくる。何故かといふと氏本人の中で首尾が一貫してをらず、その場その場でなんとなく「いいこと」を言つてゐるだけの様にしか読めないからである。現に、上に挙げたやうにあちこちで自己矛盾を引き起してもゐる。氏には一度「論理的な思考」で自分の文章を読み返し、知らない言葉については辞書を引いてみられることを進言したい。
尚、引用にあたつてはHTMLのマークアップを正しい形に改変した。

さらに追記

改めて言うまでもなく、「こんにちわ」「こんばんわ」は、ともに誤字です。
「こんにちは」「こんばんは」の「は」は「助詞」、いわゆる「てにをは」の「は」であり、「これは」「私は」などの「は」と同じです。
「今日は」「今晩は」の後に続く、「良いお天気ですね」などが省略された形の挨拶ですから、「わ」になることはありません。
そのような起源を意識することなく単体で「挨拶の言葉」とする使い方しか知らないため、発音通りに「わ」と表記してしまう人が多いのでしょう。
「てにをは」の表記を間違えるということは、小学生が作文で「ぼくわ、」と書き始めるのと同等と言えます。
「ぼくわ、学校え行って、べんきょうおします。」
こんな文章を見たら、「もっとちゃんと勉強しなさい」と応援したくなりませんか?
これと同じレベルだと言われても、「こんばんわ」という挨拶を使い続けることができるでしょうか

「ひとつづつ」と「こんばんわ」は誤りで、「ひとつずつ」と「こんばんは」が正しい。何故なら「現代仮名遣い」にさう書いてあるのだからそれで間違ひない。Rudyard氏がさういふ立場を取るのなら、それはそれで尊重しよう。しかし、それならば「論理的な思考」などといふ詐述を持出さないことだ。ただ唯々諾々とルールに従つてをればよろしい。あるところでは「ルールでさうなつてゐるから云々」といひ、別のところでは「語源を辿れば云々」といふ。つまるところ、「現代仮名遣い」でさう決められてゐるといふ一手以外、氏には用ゐることができない。これのどこが「論理的な思考」だといふのだ。
現代日本語は「現代仮名遣い」の存在のために却つて「何が正しいのか」を簡単に判断できない情況にある。その事実に真摯に向き合へば、誤字を指摘するコンテンツの中で軽軽しく「平仮名の間違ひ」などに手を出せるものではないといふことだ。
「現代仮名遣い」とは、定規としてはとても用を為さない曲つた杓子である。Rudyard氏はその事実を認めながら、それを定規だと言張つて憚ることなく他者に押付けて「バカに見える」だの何だのと難癖をつけ、挙句に御為ごかしを並べたてるのである。いい加減にするがよい。

  • 2005年09月21日 FeZn 『[ことば][あとで読む。]』
  • 2005年09月20日 funaki_naoto 『[國語]』
  • 2005年09月20日 tinuyama 『[ことば]「づつ」→「接尾語の「つ」を重ねたもの」(岩波古語辞典)「個数を意味する「つ」の畳語」(新明解)』

*1:ルール化するとはさういふことなのですよ