大和但馬屋日記

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これを恨み節ととられるのも心外

一昨日の件まだ續いてゐる。自分の所感としてはマイカーの所有が當り前といふ價値觀は日本の場合高度成長期に始まつてバブルが崩壞するまでの期間に眞當に働けて給料とボーナスを十分に貰ヘた世代にのみ普遍的に通用するのだと思ふ。俺は働き始めてこの方、何箇月分の賞與なんてものを受取つたことなど一度もない。俺みたいなのが定職に就けてゐるだけまだマシで、俺より有能な働き者なのに苦勞してゐる人は山程居る。
そんな俺が働き始めて間もない頃に職場の先輩から「都合でアルシオーネを手放さなければならなくなったので十萬でどうか」と持掛けられ、かなりその氣になりつつ迷つた末にとても維持できないので斷らざるを得なかつたといふことがある。要するにこの話題の發端である「若者は十萬圓持つて中古車買つて云々」の部分で早々に挫けたことがあるのだ。如何に松浦氏が高邁な人類の理想を説かうとも無い袖は振れない。俺が人生で一番マイカーに近づいたのがその時で、以來所得の額に關らずマイカーを持ちたいといふ氣持とは無縁で生きてゐる。別にその時の經驗がトラウマになつた訣ではない。單に「要らない」のだ。
今多少なりと買ひたい車があるとしたら輕規格のケータラムスーパーセブンくらゐで、そんな現實離れした玩具としての興味しかない。都會と田舍の兩方で「車なんか持つてても仕方のない生活」を知つてゐるのでわざわざ「車がないと生活が立ち行かない土地」に住むこともこの先一生ないだらう。
たまに必要に驅られて車を運轉することはあるが、ハンドルを握つて思ふことは大抵「あー、早く歸つてForzaやりてえ」でしかないんだよな。その方が人の運轉に餘計な口を出す同乘者も居ないしね。
皆自分を基準に好き勝手言つてるだけなので、俺自身を基準にするとさうなる。