大和但馬屋日記

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考察その二「Re:CREATORS」

アニメ話もひとつ。「Re:CREATORS」が完結した。面白かつたけれど最終話に到るまでの終幕の構成は今一つに感じた。作品内の概念を援用するなら承認力の低い話になつてしまつたな、と思つたのが正直な感想。この物語の重要な骨子は次の樣なものだ。

創作物に描かれた登場人物達が讀者や視聽者に支持されることを以て「承認力」を得て現世に具現化し、實在の人物として振舞ふ。作中では「被造物」と呼ばれる具現化したキャラクター達は創造主たる作者の安易なコントロール下には置かれず、行動規範や意識は作品内で描冩され鑑賞者に「さういふキャラである」と認識された状態の自我を確立し、假令作者がそれを好き勝手に改變しても鑑賞者の支持を得た承認力とならない限りは決してその通りにならない。逆に言へば、創造主の意に完全に沿はなくとも二次創作的に多數のファンが「さういふもの」と認識した設定が擴まれば、性格・能力・属性などの形で被造物に附與される可能性があり、その可能性の象徴として惡役のアルタイルが登場する。

アルタイルの創造主はネット上の世間の惡意に絶望し自殺した。アルタイルはその絶望が具現化した被造物として復讐のために世界を滅亡に追ひ遣らうとする。アルタイルとそれに與する被造物の勢力に對抗する爲に、主人公側の勢力は創造主(アニメ作家や漫畫家、小説家達)の力を政府主導で結集し、國家的マルチメディアキャンペーンイベントとして展開して鑑賞者の承認力を最大限に高め、アルタイルの能力を封じ込めようとする。

二次創作的にほぼ無限に能力を擴大し續けるアルタイルといふ設定は、言ふまでもなく初音ミクを代表とするネットコンテンツをベースにしたキャラクターから着想されてゐる。アルタイルのキャラデザインもある程度それに寄せてある。そのカウンターとして、創造主側はアルタイルの鏡像としてシリウスといふ新たな被造物を造り、シリウスにアルタイルを凌ぐ能力を與へてこれを無力化した。一番の違和感はここである。現實に、例へば初音ミクに對抗して他方面のプロのクリエイターが寄つて集つて「ミクの様な別のキャラクター」を自分の著作に登場させて、それがミクを凌ぐ支持を得られるかどうかといふと、それは明白に否だらう。それは結局本尊たるミクへの承認力を高めることにしかならない。殊に「プロの出すパチモン」に對するネット層の目は冷やかである。シリウスにはアルタイルから更に進んでほぼ「色違ひの初音ミク」としか言へない樣な外見が與へられたが、それがこの展開についての違和感を殊更に大きくしてしまつてゐる。

物語においては承認力を逆手に取つてシリウスがアルタイルとなつて復活を果す。そのアイデア自體は惡くないとしても豫定調和的だし、それをやりたいが爲に持つて來たそこまでの流れにやはり無理を感じてしまふ。承認力をトリックの種とするなら、例へばミクがミクダヨー化するとかシテヤンヨ化するといつた具合に、惡ノリが暴走した承認力によつてアルタイルが自らの意に沿はぬ方向にキャラ崩壊するといった展開を俺は期待した。アルタイルの創造者を死なせた「世間」がアルタイルを強くする承認力の源であるならばそれがアルタイルを滅ぼす力にもなる筈で、そんな不確かで無責任な力がアルタイルの強さと脆さを表してゐるに違ひないと思つたからだ。そこにつけこんでアルタイルを駄目にするのが「事を面白くする爲なら何でもする」眞鍳と、モブ代表の主人公颯太の役目なんぢやないのかと。それで崩壊したアルタイルの自我が、「公式クリエイターによるパチモノ」のシリウスを乘取つて再びアルタイルとして甦るといつた流れにでもした方がより承認力の高い物語になり得たのではないかと思ふ。ネットの惡ノリをさういふ方向に活かさなかつたのだとすれば廣江禮威先生はちよつと物語に對して眞面目すぎたのか、あるいは「公式」創造主サイドに近い立場の原作者としての限界か。俺は、もうちよつと「プロとアマの境目」についてギリギリまでプロとして惱んで話を考へて欲しかつたのだと思ふ。原作者の高いプロ意識がその邪魔になつたのだとしたら殘念だ。プロのクリエイターの矜持が作品の大きなテーマであるならば尚の事。

「承認力」について、メテオラの胡亂な魔法陣めいた装置とは別に、物語の中心人物の外側の「世間の勢ひ」を示唆する樣な一般人のキャラが颯太のオタク友達みたいな立ち位置でレギュラーに居れば、もう少しその邊を判り易く描冩できたのかも知れないね。

まあ色々考へてしまふのも根本的には面白かつたからで、こんな繪を出されたら一發で涙腺が緩んでしまふのだからチョロいもんだ。

http://pbs.twimg.com/media/DKaSfE5V4AEJ7T2.jpg

いいアニメでした。