大和但馬屋日記

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この世界の片隅に」は概ね太平洋戰爭末期から終戰直後までを描いた映畫であるから、畫面に登場する劇中文字も國語改革の災禍に見舞はれる前の表記とされてゐる。例へばすずさんの通ふ學校の時間割表には「図画」ではなく「圖畫」とあるし、戰地の兄へ送る手紙や廻覽板なども憶えてゐる限り正しく表記されてゐる。これは原作漫畫でも徹底されてをり、「せうゆ」などの俗用(正しくはしやうゆ)を含みつつ當時のあるがままに書かれてゐる様に見受けられる。
ただ、映畫の中でー箇所だけ、劇中文字として現代假名遣を使つてしまつてゐる部分があつた。

畫像は映畫パンフレットより引用。すずさんがヤミ流通品の砂糖の高値に怖氣付いて、買ふか買はんか迷つてゐるシーンである。ここですずさん、地面に小石で「かう」「かわん」と書いてしまつてゐるのである。では原作漫畫ではどうか。

この世界の片隅に(中)」こうの史代より引用。こちらも「かう」「かわん」である。何だ、原作通りぢやないか。さう斷じるのは早計である。原作のこのコマの文字は、地面に書かれた文字とは限らないのだ。パースも意識して書かれてゐないし、それを書くのに使つたと思しき小石も描かれてゐない。然るにこれはすずさんの頭の中にしかない文字である可能性が高いのだ。

この世界の片隅に(上)」こうの史代より引用。この畫像にある樣に、すずさんは物事の段取りを決める際に指を指すことが多い。その際の想像の内容は概ね具體的である。「かーきーのーたーねー」もさうした描冩の一つである様に思はれる。いはば「かう」「かわん」は心の聲である。であれば、假名遣ひの違ひも讀者に向けたものと解してよからう。映畫はそれをそのまま文字として地面に描いてしまひ、結果それを誤りとして定着させてしまつた。
勿論重箱の片隅の話であり、これが映晝の内容を幾らかでも損ねるものではない。少なくとも「痛ひ」「痛ゐ」のやうな出鱈目な假名遣を平氣で用ゐる様な作品ではないし。ただ、「惜しい!」とは言はざるを得ないので、このネットの片隅に遺しておく。