茶屋ULTIRAで「シン・ゴジラ」を觀たので感想。「これはね、君、大變な映畫ですよ」と山根博士なら聲を震はせて言つたかもしれない。
百點滿點で九百九十點。何から書かうか困つてしまふくらゐ書きたいことが澤山ある。書かずに放つてもおけないのでメモに書き散かしたことを徒々に纏めておく。
今囘のゴジラの進攻ルートは「ゴジラ」第一作のそれと似通つてゐる。その上で攻防戦の據點として重視される場所は現在の時代背景や地勢に合せて變更されてゐる。その場所が一々自分のツボに嵌つたが、それはまあ個人的な經驗に基く思ひ入れだ。東京灣に現れた謎の新生物が大田區の川を遡行して上陸する。その際の所謂「ゴジラ第二形態」には魂を抜かれた。といふか、「…何だこれ?」と混亂してしまつた。俺以外にもさうなつた人は多いのではないか。
見た目は「ウルトラマン」のガバドンか「歸つてきたウルトラマン」のクプクプを連想させるどこか間抜けな顔で、しかしその面構へ故に何を考へてゐるかを讀取ることも叶はず、鰓から氣持の惡い液體を吐出しながらただひたすら前進する様子に得體の知れない不氣味さを感じた。本當に何なのこれ。ショッキラスみたいなゴジラの餌なのか、チタノサウルスみたいな噛せ役の前座怪獣なのか、いつも通りのVS物だとしたら期待外れだな、などと色々餘計なことまで考へてしまつて、混亂が最高潮に達したところで眞逆の形態變化である。本當にガバドンやクプクプの様なものだつたとは豫想もしなかつた。いや改めて思ひ返せば背鰭や尾の形でさうと判つて當然だつたのだけれど、「眞逆こんなものがゴジラである訣がない」と腦が理解を拒んだのかもしれない。そのくらゐ異なものとして第二形態は姿を現はした。
觀客にその正體をばらす手掛りとなつた第三形態にしても、事前に豫告編や廣告媒体で再三「今度のゴジラはかうだ」とその最終形態の姿を刷込まれてきたから、第二形態の姿と最終形態との間を埋めるものとして腦内で補間されてそれと認識できるのであつて、それ單體で見ればとてもゴジラとは認識できなかつただらう。少なくとも「わかるけど、それにしても何だこれ」と混亂に拍車をかけることになつた筈だ。形態の燮化が既知のゴールに近付くことで、觀る側の氣持をただの混亂ではなく純粹な驚きと幾許かの恐怖に導くところまで計算に入れて事前情報をコントロールしてゐたのかもしれない。そこまで考へて、こいつは底の知れない映畫だと確信した。スクリーンの中の、「ゴジラ」といふ概念の存在しない退窟な世界に突如として現れた得體の知れぬ異形の存在について、既に「ゴジラ」を知盡してゐる筈の我々をも巻込んで、同じくらゐ得體の知れぬものとして描き出してみせたのだから息を呑むしかなかつた。
さう、俺たちはゴジラについて知りすぎてゐる。あいつが街中に立つて暴れて派手に物を壊したところで、そのこと自体を今更怖いなどとも思はないだらう。そこで一昨年のギャレゴジは津波を起してみせた。あれは效いた。今度のゴジラは、ただ不氣味な生物として間抜けた面で歩いただけだ。それが怖い。「エヴァンゲリオン」の使徒と同じだといへばそれまでだが、使徒をこんなに怖いと思つたことはない。
最終形態のゴジラが鎌倉に上陸して神奈川縣を縦断し小杉に現れたシーン。今囘のゴジラは歴代でも最大サイズを誇るのだけど、それを敢へて小杉周邊のタワーマンション群の傍らに置く畫作りが堪らない。あの邊と大崎品川近邊は南から東京方面へ歩いてくると壁の様にぶち當る巨大な城砦といつた雰圍氣で、たしかに現代の對ゴジラ防衛線とするに相應しい。そのゴジラの巨大さを以て可能となる演出も色々とあつて、それは今までのゴジラが実は持ち得なかつた最大の特質となつたと思ふ。
品川での米軍との攻防。B-2爆撃機による爆撃に備へて附近の人々は地下への避難を強ひられる。都營地下鐡淺草線泉岳寺驛。五年前の三月十一日、俺が新横濱から遥々歩いて這々の體で辿り著いた處だ。あの日、全停止した首都圏の鐡道網の中で淺草線だけが唯一機能してゐた。だから、あの驛に逃げ込む人々の心理は、状況は異つてゐてもよく解る。そこに降注ぐ米軍の地中貫通爆彈。「地中」を「貫通」する「爆彈」、最強の通常兵器「バンカーバスター」だ。最早「やめてくれ」としか言へない。映畫の中に俺が居たら、たぶんあそこで死んでゐるのだらう。
その米軍の攻撃に對し、遂に見せるゴジラの明確な反撃。體中のエネルギーが超高温のガスとして吐出され、自然に着火して周囲を火の海にするだけで飽足らず、温度はどこまでも上昇を続けプラズマとなつて空氣毎何もかも焼盡してしまふ。庵野総監督があの巨神兵以来様々な作品で磨き上げてきた破壊描寫の集大成といへるものだらう。一昨年のギャレゴジの光線発射は凄かつた。しかしそれを見事に越えた。有難う、心から有難う。
ゴジラが光線を吐くシーンを如何に恰好良くするかについては、破李拳竜氏がゴジラジュニアを演じた際に心掛けた工夫について語られたのを讀んだことがある他はあまり意識されることもなかつた様に思ふ。だからギャレゴジのアレには皆して度肝を抜かれたし、何でそれまで御坐成りにしてゐたんだと悔しがりもしただらう。だからもう本當に、有難うだ。そしてやつぱり、元が巨神兵だから渾身の熱線をさう大安賣りはできなくて、そこに人類の、否日本人のつけ入る隙がある。實にいい脚本だ。
脚本といへば、一往の主人公とその周囲の人々も含め、家族も戀人も殆ど描冩がされなかつた。そのこと自體の是非はさて措いて、ただ話の足を引張るためだけの鬱陶しい存在が居ないのが良かつた。だつて、豫告でチャラい衣裳を着て出てきた女性を見てゲエッて思つたぢやん? 今時こんな「美人」の出し方があるかと思ふぢやん? 全然そんなことはなくて良かつた。たぶんあれもミスリードだつたのだ。
最初の「ゴジラ」にはあつた國會の場面さへ潔くスッ飛ばしたのは驚いたが、あれだけ全體の尺を詰めた中に登場人物が何百人も居て、この上百人単位で國會議員を登場させる尺もお金も必然性もなかつたといふことだらう。リソースは有限なのだしね。
そして何より、「ゴジラ」は大衆娯楽映晝なのだから痛快な氣持ちで觀て居られなくてはならない。N700系! E233系! ぶわははは! 茶屋のULTIRA箱はガラガラだつたので周囲に氣兼ねなく手を叩いて喜んでしまつた。音も聲も立ててないけどさ。第一作で哀れゴジラに蹴散らされた72系(?)電車のシーンにオマージュを捧げつつ、最高にクールな反撃方法として電車を足下に突込ませるなんて大笑ひするしかないぢやないか。涙目で笑つてしまつたよ。實に樂しい映畫だつた。有難う。
百點満點で千點から十點引いてしまつたのは、折角ULTIRAで觀たのに音響面で少し物足りなさを感じたから。永年の「ゴジラ」ファンとして、伊福部昭氏の音楽をそのまま使ひたいといふ庵野総監督の強い意志は勿論感じ取つたけれども、この映畫でこれだけ過去のすべてを再構成することに全力を注いだのなら、音樂も同様であるベきだつたと思ふ。映畫音樂は映畫の世界そのものなのだから、過去作と全く同じものであつて良い筈がない。如何にもなシーンで如何にもな曲を如何にもそのまま使つてしまつたら、それはパロディなんだよ。「三丁目の夕日」に現れたゴジラならそれで良いのだらうが、「シン・ゴジラ」では良くなかつた。それあ、俺だつてあそこで「怪獸大戰爭マーチ」が流れたら血が沸き立つよ、さういふ人間だもの。でも、「だから良い」とか「さうあるべき」とは思はない。もしかしたら 「甚五郎の忘れ傘」みたいなもので、ここでやり過ぎたら「ゴジラ」を超越しすぎてしまふから、「ゴジラ」の枠に留めておくためにわざとさうしたのかな、なんて無粹なことまで考へてしまつた。まあ、そんな味噌付けは措いといて、とにもかくにも有難う。4DXも觀に行きたい。
こんだけ褒めそやしてアレだが、これが最高の「ゴジラ」だとしても今までの「ゴジラ」が駄目つてことぢやないんだからな! からよ! からね!