大和但馬屋日記

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昨日の続き。鏡は左右を反転しないことの更なる考察。まあ、直観的には納得し難いよな。現に鏡に写した文字は逆様になるし。

かういふことだ。一往、この絵は文字の書かれた絵を手に持つて鏡に写つてゐる女の子の主観としておかう。ほら、文字が逆様になつてゐる。…本当にさうか? 否、違ふ。逆様になつてゐるのは鏡の中にある文字でなく、手に持つてゐる紙に書かれた文字の方なのだ。勿論、紙を裏返して文字の面をこちらに向ければ、書かれた文字は正しく読める。それを鏡に写す時、文字は鏡の有無に関係なく自分から見て反転してゐて、鏡はそれを忠実に写してゐるだけなのだ。普段、鏡に写す物を「自分に対して裏返つてゐる」などと意識することはないから、鏡に写つた物を見て初めて「反転してゐる」と認知してゐるにすぎない。これは自分自身の顔についても同じで、自分の顔といふものは、いつ如何なる時でも他人が見たそれとは左右が逆なのだ。鏡に写つた時だけ逆様に見えてゐる訣ではない。
「でも女の子の着てゐる着物の衿は逆になつてゐるではないか」。なるほど。鏡に写る像は、鏡に近いものほど手前に写る。鏡に向つて重なりあふ物同士の前後関係が入換つて見える。だから鏡の中の着物は左前の「様に見える」。それでも間違へてはならない。鏡の中でこちら側に見えてゐるのはあくまで左の襟で、身体の側に畳み込まれてゐるのが右の襟であることは変らないのだ。
ただ、鏡の中に写る像だけを見れば、それが左右の反転した字を持つ左前の服を着た人物であると認識されてしまふのは仕方のないことで、だから話が厄介になつてしまふ。言へるのは、それが鏡に写つた像である以上、そこには観察者に背を向けた(=予め左右を入れ換へた)状態の本物が存在してゐるといふことなのだ。うむ、かへつてややこしいかな。

自転車。今日も今日とて四周分二十四キロ一本。残り五百メートルといふところで心拍数が145bpmに達してしまひ、自棄になつてペダルをメチャクチャ回してしまつたが、さういふ風にデー夕にノイズを混ぜるのは我ながら感心しない。
訃報が二つ。桂米朝さんと、児童作家今江祥智氏。米朝さんの落語をそんなに沢山聴いたことがある訣ではないが、学生時代に落語研究会に入つた友人がその偉大さを熱く語つてゐたのを思ひ出す。今江氏の作品を読んだのは子供の頃にたつた一作だけだつたがそれは深く心に残つてゐて([http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040726#abookofsummer:昔書いた感想)、つい数日前電子書籍で読んだ漫画「くーねるまるた」でもその本が取上げられてゐて懐かしく思ひ出してゐたところだつた。御二方ともに面白いお話を有難うございました。