大和但馬屋日記

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ディストピア志向

http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの八月二十日辺りから今日までの分から連想。
世の中にあるものの価値を「役に立つ/立たない」で二分できると思つてる人は多く居て、正字正かなへの非難の際にもそれがよく持出される。正字正かなが役に立たないといふ考へ自体に言ひたいことも山ほどあるが、まあそれはいい。はいはい、人それぞれ人それぞれと言つて聞流すことには馴れた。
それよりも、「役に立たないものは不要」と考へるその思考に怖気が走る。さう考へてゐる人は今の自分が少なからず何かの役に立つてゐると自負してゐるのだらう。その意気や良し。しかし何らかの乗引きならぬ事由で自分が自らの考へる「役に立つ」存在たり得なくなつた時、その人は自らを無価値と認めて自らの存在を否定できるものだらうか。
あるいは「誰がその正しさを保証するのか」などとも言ふが、誰かに価値なり正しさなりを保証してもらはなくては自分で判断すらできないのか。論理の正しさは個人の外にある。誰かの保証を必要としないから論理的正しさには信頼がおける。
誰かが保証した価値基準、その一つとしての「役に立つ/立たない」などといつたもので「合理的に」取捨撰択が行はれる社会といふのは、どう考へても一九九十年代初頭にほぼ死滅した社会形態の中でしか存在し得ないディストピアだとしか思へないのだが、未だにそんな世の中を(もしかすると無自覚に)望む人が少なからず居る様に見えるといふのは驚きだ。
とはいへ、さういふ価値観なり「正しさ」なりが自分でない誰かによつて保証されてゐるべきだといふ考へ方自体がどうしやうもなく「伝統的」である様に思ふ。日本人は、その上に載くものが神か仏か朝廷か武士か天皇マッカーサー無神論Googleかに関らず、どこまでも日本人であるのだから。

  • 2006年08月24日 firestorm 「超好き愛してる嫁にしてほしい/嫌い」でもいいとおもうのです。(なにその