大和但馬屋日記

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ARIA The NATURAL #17

前回話を投げたと思つたら、続き物だつた。さういふことか。まあ、二話続きで観て「ええ話や」で済ませるのが良いのだらうね。
しかし、二話に跨いでやる様な話かと言はれると、どうなんだらう。正直そんな風には思へないし、実際それほどの出来でもなかつた。時間的な密度が薄まつた分、サラッと流せば良いところを妙にウェットな描写で引き延ばされた印象。
また、例によつて無駄な台詞が。例へば船幽霊に傘を差してもらつたシーン。いつの間にか差された傘に気付いた後、「‥‥誰?」「にゅ?」「今誰かが居て、傘を差してくれたやうな‥‥」て。自分で差した覚えのない傘を背負つて言ふ台詞ぢやないだらう。最初の「誰?」だけで良かつたのではないか。それを言はせないと映像として落着かないといふセンスはどうなのか。前回から引続いて、そもそも擬人化された船自体が要らないといふ話をさて措いたとしても。
新しいゴンドラに乗換へた後、荷運び用に転用された古いゴンドラと擦違つた時も同様で、「私のつけた傷の跡がありました」とか言はせる必要は全くない。ハッと気付いて振返るだけで十分なのだ。アニメといふのは声優さんに仕事をさせる為にあるんぢやないと思ふぞ。ラジオドラマぢやないんだから。
どうも脚本の人は映像の力も視聴者の理解力もそんなに信じてない様に見える。それはつまり、脚本の力それ自体を否定してゐるのではないか。本作に限らず、折に触れ思ふことだけど。構造的な問題なのだらうか。脚本が誰であつても「トミノ台詞」とか言はれるのとは対極にある状況だなあ。どつちが良いといふ話ではなくて。ごめん嘘ついた。少なくともトミノ作品では映像を見れば分ることをわざわざ台詞で説明したりしない。映像作品としてそれは正しいことだとワシは思ふ。