大和但馬屋日記

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理解できないのは

何故「ゲーセン世界」とやらの、しかもSTGなんていふ狭い枠だけで話を押し切らうとするのかな、といふこと。
あへて嫌ひな譬へ話をするけれど、それは天地開闢以来現代に至るまでの日本の歴史を、諸外国の動向を一切無視して説明しようとするに等しい。人類の歴史を語る上で「日本史」といふ切口を用ゐるのは有効だが、だからといつて「我が国に最初に仏教が出現したのは五三八年だつた」とか「一八六八年、明治維新が起きて武士の時代は終つた」なんてことだけが書かれた歴史書に何の意味があらうか。ましてそこから「日本人の時代毎の傾向」なんてものを捻り出したところで出鱈目なものとなるに決つてゐるではないか。
少なくとも1990年代の中頃ぐらいまでは「硬派な男の世界」というマッチョイズムが浸食されることは無かったし、浸食されることを期待する向きも少なかったといふのに擬へると、つまりかういふことですよ? 「少なくとも六世紀の中頃ぐらいまでは『原始的な神道の世界』というシャーマニズムが浸食されることは無かったし、浸食されることを期待する向きも少なかった」あるいは「少なくとも十九世紀の中頃ぐらいまでは『封建的な武士道の世界』というサムライズムが浸食されることは無かったし、浸食されることを期待する向きも少なかった」。日本史年表だけを眺めてこんな「考察」を捻り出して、はいさうですかと流せる訣がないでせう。
日本人が現在普通に仏を拝んでゐるのは、ある日突然仏教に目覚めたからではない。それと同様で、何もないところから突然「フェリオス」が生れてゲーセンの男ヲタが初めて発情したなんてことがあるわけがないではないか。「フェリオス」が奈良の大仏並の「画期的な象徴」であることに異論はない。しかし「仏教伝来から大仏までの二百年間」に相当する期間に、既にゲーセンに萌えの萌芽はあつたのですよ。ええと、何阿呆なこと言つてんだワシは。譬へ話はやめやめ。つか「萌えの萌芽」て何。頭痛が痛い。
ともかく、何かを切口にしてものを語ることと、枠の中だけで話をしてそれ以外を排除することとは全く違ふ。私が指摘してゐるのはさういふことだと理解されたい。既に我々は松岡正剛「情報の歴史」*1より後の時代を生きてゐるのだから。

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