大和但馬屋日記

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の続き

ひねくれない書き方で書くと

領域を限定すれば集団知は機能するだろう、ということ。そんだけ。

確かにさうでせう。といふか、如何なる領域であれ、結果の良し悪しに関らず集団知が機能してゐることにはなるでせう。
自分は集団知の存在を否定はしません。ただそれのもたらす結果が自分乃至自分の属する社会にとつて有益なものとなりうるだらうといふある種の楽観的な見通しに対して全く懐疑的である、といふ意味で「信じてゐません」。譬へるならば、「宝くじは確かに存在するしシステムとしてきちんと機能してゐるけれども買へば自分が当選するなどとは微塵も思はない」といふのと同じです。「領域を限定すれば〜」の仮定はつまり、籤の当選確率を上げれば云々、と同じといふことになるかと。tropyといふものについては何も知りません故ノーコメント。
もひとつ、こちらは焚書官さん向けではないシャドーボクシング。自分乃至自分の属する社会にとつて非常に有益なものとして機能したとして、それを集団知なるものの功績として評価してしまふのは、端的に言つて気に入らないな、といふのが「一部の人」メソッドとかジャイアニズムとかを持ち出して言ひたかつたこと。つか有益無益は関係ない。何らかの知見が、発言者から切離されて皆にワッショイされて一定の影響力を持つに至つたとき、それを支持する誰かに「なんでさう思ふの?」と問ひ質して「だつてみんなさう言つてますから」なんて答へがもし返つてきたら、オレは全力で脱力するだらう。もちろん世の中はさういふもので動くやうにできてゐるけれども、ことさらに「集団知」だのと名付けて有難がるほどのものでもなからう。