大和但馬屋日記

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オレがアレを持つてゐない理由

DSのソフトをざつと並べてみて、改めて「ああオレは『任天犬』も『脳トレ』も持つてゐないんだな」と思つた。犬を持つてゐないのは割と単純な話で、あれはさすがにゲームではないだらうといふのが第一、買つてハマつてすぐ飽きて二度と触らなくなるまでの過程が物凄い現実味とともに想像できてしまふのでわざわざそれを実現することもあるまいと思ふのが第二の理由だ。
対して、「脳トレ」に手を出さない理由を書くと話が長くなる。でもだらだらと長い文章を書きたくなつたので書いてみる。
実のところ、秋葉原に寄るたびに思はず手を出しかける程度にはこのソフトに興味があるのだ。DS本体の使ひ方としては面白さうだし、予想しなかつたほどのロングヒットも飛ばしてゐるし、何といつても値段が安いし。でも、最後には買はずに店を出てしまふ。何故なのか。
端的にいへば、「この川島隆太教授のいふことをそのまま信じて良いのだらうか」といふ疑念。これに尽きる。
もちろんこんなことを言へるほど川島教授の理論について何かを知つてゐる訣ではない。といふか何も知らない。少し調べてみれば森昭雄教授の「ゲーム脳」理論を批判してゐるらしいことは分つた。何といつても川島教授の肩書は脳の専門家なので、門外漢の森教授の理論よりはよほどまともなのだらうといふ気がする。しかし、この「気がする」にどうも引掛る。そこに流されたくない。森理論が論理的にをかしいといふ指摘は各所でなされてゐるし、心情的にはそれを支持したいけれども、しかしさうすることに意味があるのか、と思ふのだ。
焚書官(id:mutronix)さんの言葉を拝借すれば、では森理論が仮に無謬の理論であるならば皆それを唯々諾々と受容れるのか、それでいいのか、といふことだ。ゲームが有害だからどうだといふのだ。有害無害、有益無益の尺度で娯楽を選ぶ、それの何が娯楽か。己を娯楽とどう向合せるか、己が責任を持つべきなのはそれだけだ。それ以上、自分の尻を誰かに持つてもらはうなどと思ふな。「オタクだからこそ〜」とか恥かしいから言ふな。そんな風に思ふから、森理論のカウンターだからといつて川島理論に快哉を叫ぶ気には到底なれない。例へば「http://allabout.co.jp/game/gamenews/closeup/CU20041229A/」といふ記事でのゲイムマン氏の採上げ方などをみると、少なからずどうかと思ふ。川島教授の著書を読むことなしに「脳トレ」等の売り文句だけから判断する愚を敢へて犯すけれども、そこで言はれてゐることは実は森教授の「お手玉」と如何ほども変らないのではないのか、と。
さらに調べてみると、例へば「科学の先端にある脳科学者の古風な教育観を批判する」といふ記事を見つけることができる。ここにある川島理論への批判を読むと、まるで森理論に対して行はれるそれとよく似てゐると思はないか。結局のところ、「教育のためと称して持論を役立つものにしたい」といふ目的が先にあつて、片やゲームを有害と指弾した上でお手玉などが有効であるといひ、片や公文式に代表される反復トレーニングが有効だとしてその手段にゲームを利用してゐる。同じ穴の狢だ。オレの目にはさう映る。
科学的にどちらが誤つてゐるとかどちらが正しいとかは関係ない。公文式が正しいかどうかもオレは知らないが、問題はそんなところぢやない。ただ、森理論を一方で嘲笑ひながらもう一方で「脳トレ」で嬉々として遊ぶのはどうなのかと、ソフトのパッケージを手に取るたびに自問して、その答へとしてパッケージを棚に戻す。そんなことをもう何度も繰返してゐるのだ。
もしかしたら「脳トレ」が普通に面白いゲームであつて、オレはそれを楽しむ機会を逸してゐるだけなのかもしれない。だとしたら悔しいのでいつかこれを買つてしまふかもしれないけれども、とりあへず今持つてゐないのはさういふ理由だから、なのだ。