大和但馬屋日記

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改革の是非その他

昨日の国語改革の話に関連して問ひかけを頂いたのでお応へしませう。
私個人の意見として国語改革で行はれたこと,さらにその過程で放置されてしまつたことについてははつきり悪だと考へます。ですが,だからといつて改革前の状態に戻すべきだとは考へてゐません。といふか戻せるわけがありません。
その上で正仮名遣ひを使ふことについては,折に触れてその理由を書いてきたと思ひますが,最大の理由は「言葉に対して意識的でありたい」と思ふところにあります。いふなれば「よりまともな文章を書くための日常的な訓練」とでもなりませう。その成果が現れてゐるかどうかは自分では分りかねますが,少しはましな文を書く様になつたのであればよいなと思つてゐます。悪文のままであつても,まあ少なくとも新かなづかいと同等の表現は可能なのだといふ証明にはなるでせう。それに意味があるかどうかはさておいて。
何であれ興味を持つたものに対しては,より根つこに近い原理的な事柄を知りたいと思ふ私の性格が言葉の方にも向いただけのことで,WEBに文章を書くといふことで手軽にそれが実践できるために目立つ様ですけれども,他の趣味に関しても私の接し方は似たやうなものだと思ひますよ。
私に関しては上記の通りですが,他の諸氏がどのやうな意図をお持ちかは与り知るところではありません。私が折に触れて国語改革批判をしてしまふのは,まあ悪い癖といひますか,自分のしてゐることの正当化なのでせう。あまり鼻につく様でしたら差し控へた方がいいのかもしれませんが,一方でいくら批判してもし足りないといふ気持ちもあり,我ながら困つたことだと思ひます。
「国語改革を無かつたことにしたいか」については,これも事の始めに書いたと思ひますが,「仮に無かつたとしたらかうなつてゐただらう」といふことを実践したいとは思つてゐます。何度か書いてきた通り,言葉は文化を伝へるものであり,特に誰かが手を入れるでもなく連綿と伝はつてきたものです。それがある日突然ほじくり返された。国語審議会における当時の経緯については,やはり「私の國語教室」を読んでいただきたいのですが,審議会の主要メンバーに国語学者が含まれてゐなかつた点をもつてしても歪であつたと言はざるを得ません。たぶん,邪魔だから除外されたのでせう。国語学者に思ひ入れはなくとも,これが不公正であることは分ると思ひます。かうして連綿と伝はつた文化がとつぜん歪められてしまつた,傷つけられてしまつたことについてはやはり憤りを感じるし,そのために失はれつつあるものを,残せるものなら残したい。改革を無かつたことにしたいわけでも新たな改革を起こしたいわけでもなくて,文化を保存し修復したいと考へてゐるといふのが最も正しい答へであると思ひます。
国語改革は事実としてあつたけれども,後世の評価としてあれは間違つてゐたと私は思ふ。現に,このやうに仮名遣ひを変へたところで(読みづらいと思ふ人もゐるでせうが)普通にコミュニケーションが取れてゐるわけですから,国語改革の成果などその程度のものだつたわけです。擁護に値すべきほどのものであるとは私には思へない。他の多くの様様な政治的な変革と比べても,国語改革がとりわけ歴史的に有意義であつたと証明するのはむずかしいのではないでせうか。そんなわけで,時計の針は戻せないけれど,ダメージが少ないうちに,残せるものは積極的に残したい。そんなところです。
「言葉は論理的に正しい必要はあるのか」については,「もともと(どちらかといへば)論理的であつたものをわざわざ非論理的なものに作り変へる必要はあるのか」と問ひ返してもよろしいでせうか(これではまるでフレーミングですがご容赦を)。国語改革はさういふものであつたから,それを非難してゐるのです。
「自然な変革と人工的な改革の違いはあるのか」について,大きな違ひはないと思ひます。といふか,日本人はそれを区別しません。仮に敗戦直後,志賀直哉が唱へた通りに英語あるいはフランス語が日本の国語に制定されたとしても,当時の日本人の多くはそれを受け容れたでせう。そして,六十年後に未だに日本語を使ひ続ける一部の人に対して,英(仏)語*1しか理解しない人が嘲笑を浴びせてゐることでせう。大衆は受け容れることを自発的に決定しません。ただ受け容れるだけです。是非はともかく,日本人とは*2さういふものだと私は考へます*3
日本人は旧弊といふ言葉が大好きで,「旧いこと」と「弊害」は本来別個の要素のはずなのに,いつの間にか旧いことが即ち弊害であると考へてしまひます。'80年代に「××はもう古い,これからは○○の時代だ」といふ言ひ回しがやたらと流行つた記憶がありますが,今思へばかうした考へこそが日本人の持つ旧弊そのものなのではないかと思ひます。
また個人的な興味の話になつてしまひますが,今の私は「昔から続いて今も残るもの」に心を動かされることが多いのです。たぶん万葉集の仕事に携わつた時から芽生えた感情だと思ひます。今でも単発的な歴史上の事件(三国志とか戦国時代とか)にはほとんど興味がありませんが,さうした時代の人たちが今に残したものには心惹かれます。だから,それらの根本にある言葉については無関心でゐられないわけです。
長くなりましたが,以上でよろしいでせうか。

*1:たぶん本来の英語やフランス語からかけ離れたものに変化してゐるはず

*2:日本人に限らないかもしれませんが,とりあへずここでは日本の話として

*3:私はさうではないと言ふ話ではありません,悪しからず