大和但馬屋日記

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隣り合せのアレとかソレとか

ギャラクシアン(FC,namco)

昨日付の日記に引き続いて、ギャラクシアンを猿の様に遊び続ける。遊んでゐてしみじみ思ふ。オレはゲームが好きで、中でもアクションとかシューティングとかドライブゲームが好きだが、一番好きなのはこの「ギャラクシアン」なのだらう。今までずつと「ゼビウス」だと思つてたんだけど、どうも違ふね。本当に無心で遊べるのはこの、「ファミコンギャラクシアン」だけだ。アーケード版ぢやダメなんだ。


シューティングゲームの嚆矢をここでは「スペースインベーダー」としよう*1。1978年にインベーダーブームが起り、翌年以降柳の下のどぢやうを狙つて多数のシューティングゲームが世に出たが、自機と敵の関係が真に対等だつたのはこの「ギャラクシアン」ただ一つだつたのではないかと思ふ。「インベーダー」では自機が弱すぎる。もし最初に四つのトーチカがなかつたら、と想像してみて欲しい。恐らく多くのプレイヤーが一面クリアもままならず、もしかしたらあのブームも起らなかつたらう。そして、「ギャラガ」では自機が強すぎる。強い自機に合せて敵の強さが調節されてゐるのでゲーム全体としては極めてバランスが取れた傑作となつてゐるが、自機と敵機の関係にだけ目を向けた場合、そのバランスは既に崩れてをり、以来二十年後の今日までそれは崩れたままだ。
ギャラクシアン」の自機の撃てる弾は画面内に一発きりだ。それは「インベーダー」でも同じだが、「インベーダー」の敵は一斉に攻撃を仕掛けてくる。そもそも奴等は自機の存在など見てゐない。あれは勝負などではなく、機械的に押し寄せるインベーダーの群を水際で喰ひ止める絶望的な戦ひだ。プレイヤーにとつてインベーダーの攻撃は雨粒と変らない。
それに対して、「ギャラクシアン」のエイリアンは常に自機を見てゐる。隊列の位置と自機の座標から降下する軌道を割り出し、自機のゐる方向に弾を落してくる。自機を見ない行動は一つとしてない。
続編の「ギャラガ」になると自機が連射可能になり、敵単体との強さのバランスが崩れた。その代り敵の攻撃パターンが無秩序となり、攻撃そのものが激しくなり、自機を捕獲までする様になつた。その自機を奪ひ返すことで自機の攻撃力はさらに高まり、それに合せて敵の攻撃もさらに激しくなり、破綻したバランスを取り繕ふために敵は行列を作つて画面内に登場する様になつた。自機を見ないその行動の間に敵を減せば、後が楽になるといふ具合だ。なるほどゲームとして「ギャラガ」は優れてゐる。人によつてはゲーム史上の最高傑作と呼ぶだらうし、オレもそれに賛成だが、「ギャラクシアン」で遊んでゐる時の独特の駆引きの味はひは、残念ながらない。
このバランス感覚が、一番優れてゐるのがファミコン版なのだ。縦画面のアーケード版では敵と自機が遠すぎて、なほかつ敵の軌道も縦に長すぎて、自機の移動速度も遅いために、駆引きの幅が狭すぎる様に思ふ。NASA用語で「ウインドウが小さい」といふのが適当で、ギャルボスで確実に800点を取るのが難しい。
ファミコンではそれらが横画面用に調整し直され、絶妙なバランスとなつてプレイヤーに届けられた。こんなに気持のいいゲームには、さう出会へるものではない。他に例を挙げようとしても、セガテトリスくらゐしか思ひ浮ばないくらゐだ。


好きなゲームを挙げろと言はれて一つに絞ることはやはりできないけれど、ファミコン版「ギャラクシアン」は別格だ、たぶん永遠に。
懐古趣味では、断じてない。古いこと自体に価値を見出せる程ゲームは成熟してないし。

*1:ビデオゲームの元祖「スペースウォー」は割愛する