大和但馬屋日記

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見えるとは

そろそろ眼鏡を作るべきだといふ程度には近眼の度を増してきた我が目に、自転車のバックミラーを通して映るその景色がややボケて見えるのは、そもそも鏡に焦点が合つてゐないせゐなのか、それとも普通に鏡を通さずに見た場合と同じ理由なのか。理由がどちらかであるとして、もう一方の場合と区別がつくものなのか。
なんてことを考へてゐると、そもそも見えるといふことが分らなくなつてきた。
ある範囲の波長の光線が網膜上の視細胞に当ると脳がその刺激を映像として解釈する、といふ部分は良い。わからんのは、網膜に光が届くといふ部分だ。
光は取り得る最短の経路を進む。よく知られたフェルマーの原理だ。しかし、よくあるこの種の説明だと、まるで光が自ら進む経路を選んでゐる様な錯覚が起きさうだ。そんな解説もよくある。例を挙げてみよう。

もちろんそんなわけはないのである*1
何であれ、この原理なくして物が見えることはない。目の水晶体で光が屈折して網膜に像を結ぶのも同じ原理だからだ。
しかし、それで納得してしまへるか?
といふ中途半端なところで力尽きるのである。

*1:解説そのものが間違ひだとは言つてない