大和但馬屋日記

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大人とか子供とか

仰ることは大体飲み込めた(つもり)。id:mutronixさんがテレビゲームに疚しさを感じることについては、横から口を出せる類の話ではないので、これ以上は何も申し上げますまい。ただ、大人・子供の分け方にはやはり異論があります。

勉強したり身体を鍛えたりするのが面白いという人がいますが、そういう人は、行為に対する結果を少し長く待てると言ってよい。一般的に、この待ち時間が長いのが大人で、短いのが子供だと思われています。
よって、テレビゲームをするというのは、テーマを云々する以前の問題として、本質的に、結果の待てない「子供」のやる疚しい行為だと思います。
「大人でも楽しめる…」とかいう言葉でテレビゲームのことを話す人の話は、この疚しさを知らないか、意図的に無視しているかどちらかだと判断するので、あまり聞く気になれません。

引つかかる点を以下に挙げる。

"一般的に〜子供だと思はれてゐます"といふのは、どこまで一般的な話なのか。
自分には、これが mutronixさんによる私的な言葉の再定義と区別がつかない。仮に「ああ、うまいことを言ふ」と膝を叩いたとしてもそれだけの話であり、「大人」「子供」の(辞書的な)本質とは無関係。にも関らず、
"よって、テレビゲームをするというのは結果の待てない「子供」のやる行為である。"と定義するのは妥当か。
ここで、頴倒が起きてゐる様に思ふ。「大人」「子供」はあくまで「人」に関る性質であるが、同じ人が勉強を楽しんでテレビゲームもする場合、その人は勉強をしてゐる時は大人で、テレビゲームをしたら子供なのか。その場合、その人がどういふ風にテレビゲームに接してゐるかは不問なのか。
「大人でも楽しめる…」とかいう言葉で語る人の「大人」は、mutronixさんの定義する「大人」と同じ言葉なのか
私にはさうでない場合が多いのではないかと思はれる。単に年齢的な分類で言つてゐる可能性の方が高いのでは? 私的な再定義語を物差しに、他人の行為や言葉を量るのは少々危険。特に行為を元に「大人」「子供」を判定する場合は。「大人」「子供」は本質的に行為でなく人につく性質なので、言はれた側はそれを総合的な人格評価としか受け取り様がない。物事のある一要素を取り上げて本質と称する行為はここにも当てはまる。



mutronixさんがアナログゲームとテレビゲームの差異を浮び上がらせようとする意図は理解できるが、それを「大人」「子供」といふ言葉で断裁する必要はないと思ふのだ。断裁した瞬間に「大人」「子供」といふ言葉が本来持つ意味までもが上乗せされて、他者の言葉をもそれで縛ることになる。
大もとの話に遡つて、テレビゲームは自己満足度が高いとかいふ話であれば、その範疇の表現を選べば良かつたのではないかと思つた次第。
思ふに、テレビゲームは行為にしても、そこから得られる結果にしても、極めて私的な部分で完結してしまひ、他者と共有できないものだと。友人同士で一つのゲームで盛り上つてゐる場合でさへそれは同じでせう。
より競技性が高まつて、「ゲームの中での自己研鑚」が社会的評価と結びつく様になれば話は変つてくるでせうが*1、テレビゲームの価値はもしかしたらそんなところと無縁でゐられるところにあるのかもしれず。ゲームで修練を積む人の動機に社会的評価なんて含まれてないでせう。
すなはち、テレビゲームは私的な娯楽であると。大人になれば、そこに留まつてゐられない人が多くなるのだらうなあと、私に言へるのはそこまでであります。

*1:ゲーム脳云云はこのレベルの話