大和但馬屋日記

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ニッポン無責任時代

何年も前にPS2用のゲームとして「それなら君が代表監督」といふものがあつて、これがなんとも秀逸なタイトルだと未だに感心してゐる。
勿論「君が代」とは関係がない。サッカーの日本代表チームの監督となつてワールドカップ優勝を目指すゲーム、なのだらう。試合に勝てば「君が代」も流れるだらうから全く無関係でもないかもしれんがよく知らない。サッカーにもサッカーゲームにも興味はないからどんなゲームかもわからない。わからなくても、このタイトルはともかく素晴しい。
たぶん、代表監督がトルシエ氏からジーコ氏に代つた頃に発表されたのだらう。人選の是非を巡つてファンが好き勝手に床屋政談よろしく「あいつは駄目だ、俺がやつた方がまだましだ」などと言ひ放つその言葉尻を上手く捉へた、センスに溢れるタイトルだと思ふ。肝心のゲームの中身が面白いかどうかは全く知らないけれど、それこそ自分にとつてはどうでもいいことだ。
ゲームのタイトルならばさうして笑つてをれば良いが、現実にさういふものを持込まれても困る。「それなら君が裁判員」といふやつだ。紅白歌合戦のネット投票ぢやあるまいに、あんなものを導入して何になるのか。
表向きには裁判の判決が一般的な国民感情からかけ離れた内容になることを防ぐといふ意図があるのだらうが、当の国民はといへば無作為に選出されて任命された裁判員の責務を合法的にサボタージュする方法にばかり関心を払つてゐる有様。斯く云ふ自分だつていきなり責任を負はされたら困惑するばかりだ。
実施する側の理屈としては、司法判断のプロセスに「民意」を取込むことで判決結果への反撥を弱めることができる。「御前等の考へも採入れたのだから、後からくどくど文句を言ふな」といふわけだ。一方、裁判員の法律上の権限などたかが知れてゐるから、判決結果が如何なものであれ裁判員個人が責を負はされることはない。つまり、責任の所在を曖昧にごまかしつつも司法の発言力を相対的に強めるための制度、といふのが自分の感じるところだ。
かういふ風に、床屋政談紛ひの無責任さが制度として形を整へてしまふのは恐ろしいことではないか。覚悟も用意もない相手に「ぢやあ御前等がやつてみろ」とやつてしまふのは無策以下の下策だと思ふのだ。責任を雲散霧消させるやうな施策は一見民主主義的に見えるが、実際はその対極に位置するものだ。