大和但馬屋日記

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モブか観客か

yms-zun2007-07-15

id:yms-zun:20070712#homeからの続き。

何だかもう人生観の突合せになつてしまひますね。
「多くの人は主役はおろか脇役ですらない、モブの立場に甘んじることを認めなくてはならない」。本当にさうなのでせうか。さうかもしれないけど、言葉としてさう表現してしまふと、何とも息苦しいものですなあ。いや茶化して言つてるつもりはないのですが。
オリンピックは物の譬へですのであまりそこを掘下げられても困るのですが、譬へ話をした責任は取るとしませう。で、オリンピック等に纏はる出来事を一篇の物語とした時に、それに対して凡そ接点のない自分を「モブの中の一人」と捉へることに大きな違和感があります。そこはやはり「観客」、オーディエンスなのではないでせうか。深井さんがモブと観客を同一のもの、あるいは観客がモブに内包されるものとお考へであると仮定して話を進めますが、私はそれを分けて考へます。すべての物語の枠組に自分が組込まれてゐるといふ風には考へません。それはあまりにしんどい考へですから。それが取立てて才の無い自分が身につけた心の持ち様といふことになりませう。
観客には観客の在り様があつて、それは凄いものを見たら「これスゲエ」、それを成遂げた人に「こいつスゲエ」「あんたスゲエよ」、それで十分と思ひます。外国人のいふ「日本人スゲエ」だつて「日本にもスゲエ奴が居るもんだな」くらゐの意味でせう。そこに彼我の力量差を感じて羨んだり落込んだりした時、既に自分は自分の物語の主役です。結末はどうであれ。
ここに二つの線引きがあるとします。「日本人か否か」で引かれる線と、「当時者か否か」で引かれる線。深井さんが書かれてゐることは後者の線の話でせう。それについて、「主役脇役/その他大勢のモブ」といふ線引きに対し、「主役脇役モブ/観客」といふ線引きを私は提案しました。もちろん私以外の皆がさう考へるべきだとは思ひませんし、いい歳こいた自分とて未だ主役願望が無いといへば嘘にもなりますが、その先は今回の話と関係ないので割愛します。ともあれ、さうして引かれた線と「日本人か否か」で引かれる線に、如何ほどの関係がありませうか。私は、それは「無い」のではないかと言つてゐます。
物語を自作して発表されたことのある深井さんなら私が「Forza2」のペイントカーに纏はる一連のムーブメントを「同人活動」に擬へたことの意味は御理解頂けるでせう。同人活動について、私は自らをオーディエンスと位置付けることに意味はないと思ひます。したがつてコミケをはじめ、多くのイベントがすべての来場者を「参加者」と呼ぶ意味を尊重します。「日本人スゲエ」より「ちょっと箱〇買ってくる」のコメントを好もしく思ふ意味はここに読みとつて頂けるでせうか。ここで「あんたは才能があるから無い奴の気持ちは分んねえよ」と言はれるのは、全く同意できません。
最後の、日本固有であるか云々については少々不用意でした。多数の日本人がした優れた仕事に対して「日本人」とセットで語ってはいけないとまでは考へてゐません。ただ、それが「Forza1」の時の様に人知れず埋もれてしまふこともなく、多くの人々の目に触れる機会に恵まれて、予想もしない盛上りとなつて良かつたね、といふ事の一端を見てきた一人として、それが「日本人だから」とか「YouTubeの御蔭」みたいなピント外れの大雑把な物語に回収されるのが苛立たしかつた、といふのが本音でせう。「でせう」とは無責任ですが、まあ省みてみればさうであつた、といふ意味で。