大和但馬屋日記

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一日本人として

普段の宗教的行為と信仰意識を切り離して扱うことに長けた日本人というのは、実は一番科学向きなのではないかという気がする

とりあへず根拠の提示なしに感想として申し上げますが、これについて私は心の底から否定せざるを得ません。科学向きかどうかはさておき、普段の宗教的行為と信仰意識を切り離して扱うことに長けた日本人なんてどこに居るのだらう、と思ひます。自分には信仰意識がないと言ふ人の「日本人らしさ」を見るにつけ、信仰意識を自覚してゐないからこそそれと自分自身との区列が出来てゐないと感じることの何と多いことか。もちろん私もその内の一人でありますが。
日本人が他の文化圏の人に比べて普段の宗教的行為と信仰意識を切り離して扱うことに長けてゐるとは、私には到底思へません。日本人が長けてゐることがあるとすれば、それは自らさうと意識せずに信仰対象をころころ変へることでせう。「鰯の頭も信心」といふ格言こそが日本人像を最も鋭く言ひ表してゐる、私はさう思ひます。そしてそのことを否定すべきでもないと思ひます。思想的な右左ではなく、日本人はさういふ文化の中で生きてゐる、といふことを。むしろまづそれを認めて、かつ科学的思考と如何に共存すべきかを考へるべきだと思ふのです。それは決して不可能ではないでせう。現状を鑑みるに、暗澹たる気持を禁じ得ませんが。
真に科学的な態度を取れる人は決して宗教的なものを考察の対象として区別し相対化はしても、相対化の振りをした否定はしないと思ふ。宗教的な何かを簡単に否定してしまへるのは別の何かを「信仰」してゐるからにすぎない。大多数の日本人はどうか。

  • 2006年12月29日 DocSeri 信仰を意識していないからカルトに引っ掛かる、という側面もあろうかとは思うが。
  • 2006年12月29日 funaki_naoto 日本 「宗教的な何かを簡単に否定してしまへるのは別の何かを「信仰」してゐるからにすぎない」