大和但馬屋日記

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良い台詞と悪い台詞

必ずしも台詞が「洗練」されてゐれば良い訣ではないといふのは、例へばかういふことだらうか。
機動警察パトレイバー」の最初に起きる、テロリストによるレイバー*1の暴走事件。隅田川を遡上し浅草で上陸したレイバーを上野公園に誘導するといふ後藤隊長の決定に、隊員がなぜわざわざ浅草から随分距離のある上野まで追ひ込まなくてはならないのかと問ひ掛ける。それに対する後藤隊長の台詞。資料が手許になく、古い記憶に頼つて書いてゐるので正確さを欠くことをお断りしておく。

コミック版
(後藤)「太田よ‥‥俺には見えるぞぉ。飛び交ふ銃弾、吹飛ぶパトカー。浅草一帯火の海だ。」
(太田)「じ‥‥自分がそんな無茶苦茶な人間に見えますかぁっ!」
(篠原、太田を笑ひながら)「た‥‥隊長ぉ、近隣住民の保護の観点から市街地での戦闘を避けるのは分りますが、上野は上野で寺社やら文化財やらが沢山ありますよ。それらへの配慮はどうなつてゐるのですか」
(後藤)「傷をつけるな。」
(篠原)「そ‥‥それだけ?」
(後藤)「それだけ!」
OVA
「あそこはね、俺が生まれたとこなの。」

少年サンデーでの長期連載が予定され、読者にキャラクター像を印象付ける目的を込めて描かれたコミック版の会話と、如何にも押井守作品らしく端的に纏められてしまつたOVA版の台詞。メディアの違ひに目を瞑り敢へて両者に優劣をつけるならば、自分は断然コミック版の方が優れてゐると思ふ。OVA版は何もかも端折りすぎで、結局それはその後すべての「パトレイバー」アニメ作品に登場する人物の底の浅さを象徴したとも言つて良い。もちろんOVA版の台詞を「洗練されてゐる」あるいは「洒落てゐる」と評価することはできる。それはしかし見方を変へれば陳腐である。
さうした台詞に対する作り手の態度がその後の泉野明に「あたしのイングラムはなあ‥‥あたしが毎日乗つて‥‥少しづつ動きを覚えさせて‥‥ここまで鍛へあげたんだ‥‥あんたが気紛れで遊ぶ玩具とはなあ‥‥違ふんだっ!!」と言はせてバドの操るグリフォンを圧倒的に捩じ伏せさせるか、「あたし、いつまでもレイバーが好きなだけの女の子でゐたくないの」などと如何にも「自分探し」な独白をさせるかの違ひを産み出してゐる。押井(あるいは伊藤和典)は陳腐と知りつつ野明に後者の台詞を言はせてゐる。その程度の人間性をしか彼女らに与へず、物語の中心から彼女らを追出してしまつたからだ。
そのことが作品自体の優劣を決定付ける訣ではないが、作品を通じて制作者たちが何を出力しようとしてゐるかの違ひは浮き彫りになつたといへる。コミック版「パトレイバー」の登場人物たちの台詞は登場人物自身の言葉であり、初期OVA版、そして劇場版「パトレイバー」の登場人物のそれは伊藤和典を通じて発せられた押井守の言葉である。物語における台詞の在り方として、ワシはコミック版の方が理想的であると言つておく。
蛇足ながら、コミック版のストーリーラインを一部で忠実になぞつたテレビ版「パトレイバー」がコミック版と同等の物語を獲得できたかといふと、それは大いに疑問が残る。テレビアニメ版は例へば「知恵と勇気」といつたキーワードを決め台詞的に使ひ過ぎた。これはテレビアニメを手掛ける脚本家に共通する悪い病気だと思ふ。

*1:コミック版ではクラブマン・ハイレッグ、OVA版ではぴっけるくん