大和但馬屋日記

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可能性とかそのへん

yms-zun2006-04-24

「ARIA」第一期第三話のカモメがヤバいといふ話
んー、他はどうあれ、私にはそれはどうしても承服できないといふか、「何故さういふことになるんだらう?」といふ疑問で一杯になるので、少し詳細に検討といふ名の擁護をします。
参考資料のために、番組冒頭から当該カットまでをアップしました。いろいろ微妙ですが、著作権を侵害する意図はなく、批評のための引用として上げておきます。一連のカットの繋がりと音声、動き等が分れば十分だと思ひますのでモノクロ映像で。音声も聴ければいいレベルまで落してあります。(MPEG4,7MB)
このシーケンスは全部で九カットありますから、便宜的に番号を付けませう。

cut1
水面に差し込まれる灯里の手
cut2
空、静止する二話のカモメ
cut3
番組タイトル、上空からの水路の俯瞰
cut4
水に手を差し入れたままの灯里
cut5
ゴンドラのオール越しに遠ざかる街並み
cut6
水面からPAN UP、橋を潜るゴンドラ
cut7
街から外海へ出るゴンドラの横スライド
cut8
風を感じる灯里
cut9
上空からの俯瞰、痙攣(?)するカモメ

この次のカットから、灯里と藍華の漫才による本編が始まります。
ヤバいと言はれる「痙攣するカモメ*1」は最後のカットに出て来ます。確かに、私も初見で「おや?」と思つたのは事実です。しかしそれは同じカットの中で意味を理解することも可能だし、見返して前後の繋がりを意識すれば意味の取り違へ様のない演出だと言つて間違ひないものだと思ふのですが如何。
順を追つて説明しませう。まづ、このカモメはcut2で既に画面に登場してゐます。この時点で普通の飛翔ではなく、風に乗つて(あるいは逆らつて)一点に静止してゐることがわかります。
cut3は、もしかしたらカモメの視点でせうか。まさに「鳥瞰」です。その後、様々なカメラワークを駆使してゴンドラが街から外海に出たことを示し、最後にカモメを大写しにしながらカメラを引いていきます。最初からアップになつてゐる二羽はcut2と同じ所作をみせ、後から右上にフレームインする三羽目は途中から風に流される様に右へ消えます。
これらの一連の流れで表現しようとしてゐるのが何かといふと、他ならぬ「風」でせう。それはOPの歌詞の冒頭、「頬を撫でる優しい風」を受けるものであり、OPに重なる灯里のモノローグを裏打ちするものであり、この話の終盤で心を開くアリスの笑顔に繋がる重要なキーワードにもなつてゐます。
本編が始まるまでの一連のシーケンスでたつぷり一分半の尺を費やして(最後のカットには三十秒以上もかけて)、目に見えない「風」を表現してゐる。これを私は「ARIA」らしい名演出だと思ひます。第一期放映当時に褒め忘れたので、今褒めておきませう。といふか、今改めて見返してやうやく気付きました。私が「ARIA」をアニメで表現する際に見たいのはまさにかういふものです。この演出が後藤圭二によるものだとしたら、本当によくやつてくれましたと思ひます。情景描写にあへて長尺を使ふことまで、既にやつてゐるではないですか。
さて、演出意図さへ分ればカモメの動き自体に変と感じるところは何も無い様に思はれますが、それでもやはりをかしく見えるならば、ではどう演出されれば良かつたのでせう。先述の通り私も「おや?」とは感じましたが、右上を流れていくカモメを見て「ああ、さういふことね」と理解することは可能でしたし、改めて見返して自分の受止め方に間違ひはないと確信もしてゐます。ただ、後から見返して演出意図を掴み直すなどといふのは一部のマニアの所業であり、初見ですべてを理解させられなかつたのであれば演出としては失敗だつたとは言へるでせう。しかし映像とは時間の藝術ですので、一見してすべてを理解させられるかといふとそれは無理な話です。それを分つた上で、この部分のコンテは可能な限り時間をかけて、とにかく丁寧に表現したいものを正しく伝へる努力をしてゐるとも思ひます。
「いや演出でなく作画の問題が‥‥」といふ反論が脳内で聞こえるのですが、それに関しては「さうでせうか?」としか答へやうがない。といふか、同じカットがどう作画されれば満足なのかが私にはよくわからない。ただ普通にアニメ的に素晴しい作画でカモメを飛ばせたところで、それで表現されるのは「飛んでゐるカモメ」であつてあの空間に吹いてゐる「風」ではなくなります。果たしてそれで良いものになつたかどうかは、表現されてゐないものとの比較になりますのであまり意味を感じません。同様に、「この回が別の人の担当だつたら」といふ仮定を悪い方に転がしていくのもどうかと。まあ、個々の駄目出しも確かに褒められたことではありません。ただ、私が何か言ひたくなるとすればそれは「そのシーンなりカットなりが何を表現しようとしてゐるのか/そしてそれを表現できてゐるのか」といふ映像言語的な部分に関することだけなので、ぶつちやけ総監督が頑張れば済む話なのではないかとも思ふ訣で。
話が逸れたので元に戻すと、件のカットは「表現しようとするものを過不足無く表現できてゐる」と私は思ふ次第です。
以上、一連のシーケンスを示すことで、自分がアニメ版の「ARIA」に何を求めてゐるか、言換へればどの様な可能性を感じてゐるかを再認識できた気がするので、感謝の意を込めてid:deeper:20060424:1145812452の話題にもトラックバックを送ります。

蛇足

散々褒めそやした後に敢へて欲をいふならば、カットの順番が5-6-7でなく6-7-5であれば尚良かつた気がする。

追記

画の出来不出来に関しては別の見解のままに終りさうですが、一つだけ。

作画が持つ可能性は、風を表現できないほど狭くないからです。

これは確かに仰る通りでした。私はあれを不正解だとまでは思ひませんが、他の正解を認めないかの様な自分の発言は不用意だつたと思ひます。
ともあれ、お付き合ひ下さつて有難うございます。

*1:カモメカモメ言つてますが、この鳥が実際なんなのかは不明。便宜上カモメといふことにしておきます