大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

オレの楽しさはオレのもの

いきなりジャイアンみたいなことを書いてみたが、それはともかくNWatch ver.4:闘争への欲望で触れられたことについて若干のフォローをしたい。

要するに「『ネタ/真面目』の評価軸は『楽しい/楽しくない』の評価軸とは関係ないことは分かっている。ただ、例え『ネタ』であっても『楽しい』のならば、私たちはそれを許容すべきだろうということを言いたかったのです。」ということです。
しかし僕はどうもこのやりとりに違和感を覚えるのですね。要するに彼らの間ではどちらも『楽しい/楽しくない』の評価軸が最も重要であり、『ネタ/真面目』の評価軸はいわばどーでも良いものとなっている訳です。まぁこれはネット上では極めてありふれた価値観といえるでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/rir6/20050606/tousou

この「彼ら」に私(yms-zun)も含まれてゐるものと読んで、蛇足めいたコメントさせていただく。
少なくとも私は『楽しい/楽しくない』の評価軸が最も重要であり、『ネタ/真面目』の評価軸はいわばどーでも良いものとは考へてゐない。「楽しい/楽しくない」の評価軸は、「ネタ/真面目」の評価軸とは「関係がない」としか言つてゐないし、私の中で「真面目」は失効してゐない。さう読み取れなかつたとしたらそれは私の文章力不足ともいへるが、私の元のマジレスしてみるの文脈の中ではそこまで話を広げるつもりもなかつたからでもある。
折角の機会なのでそこを掘り下げよう。まづ、「ネタ/真面目」文脈の中で私が加野瀬氏の文章から最初に読み取つた「楽しい」の意味と、私がそれに対して反論した「楽しい」の意味と、加野瀬氏があとからかういふ意味だつたといふ「楽しい」の意味はそれぞれ異なる。あのやり取りの中で、私がその点についてそれ以上反論しなかつた(その必要がなかつたから)けれども、私は加野瀬氏の「楽しい」には様々な意味を含めていて、広くいえば「人に興味を持ってもらいやすい」というところだろうか。と仰る「楽しい」の定義を、私のものとしては受容れてゐない(もちろん加野瀬氏の感覚として尊重はしてゐる)。
私が加野瀬氏への反論(マジレス)の際に示した「楽しい」とは、自分自身が楽しいと思ふか否かだけを指してゐる。他人を楽しませられるか否かは一切考慮に入れてゐない。ユーモアの欠片もない、ガチガチに真面目な主義主張や論文等であつても、私の興味といふか、知的好奇心のやうなものが刺激されればそれは楽しい。感情がポジティブに向ふことばかりではないし、まして「可笑しい」と同じ意味では全くない。自分を形づくる何かが揺り動かされる経験をし、それを受容れようと思つた状態を指して「楽しい」と言つてゐる。語彙が貧困なのは認めるが、「感動」とかいふよりはまだましだと思ふ。さういふ、快楽といふ意味を必ずしも含まない「楽しい」といふ概念は有り得るのではないか。または、詭弁めくが、あらゆる感情の動きは快楽であると言換へてもよい。結局同じことだ。
「ネタ/真面目」といふと少し意味がずれるので、「他人の受けを狙ふか否か」で考へたい。加野瀬氏が提示したのは「人に興味を持ってもらいやすい」といふ評価軸であり、他者との関係の中で「楽しい」が決定されてゐる。それはそれで一つの価値観だが、一方で「受けが取れれば中身は関係ない」といふ立場も取り得る。私が反論したかつたのはまさにこの点においてであるし、故にRIR6氏が私をも同じ価値観の中にあると認識されたならば、それは違ふと申し上げたい。まして、「楽しい」=「可笑しい」といふ解釈であるならば、それは絶対に違ふ。
私にとつての「楽しい」は、私自身の経験にのみ基いて決定される。人を楽しませるために書かれたものかどうかは関係がない。動機はこの様に全く独り善がりなものだ。とはいへ、私もそれほどの奇人変人ではないだらうから、多くの人が楽しいと思ふものを楽しいと思つたり、他人が楽しむ様子を見て自分も楽しいと思ふくらゐの感性は持つてゐる。勿論、あるものを見たり読んだりして「そんなものの何が楽しいのか」と思ふことだつてある。しかし、自分が楽しくないからといつて、同じものを楽しいと思ふ人がゐるはずがないとまでは思はない。
一方、出力する側の自分としてはどうかといふと、これも同じである。自分が楽しいと思ふことを書く。それがネタだらうが悪ふざけだらうがクソ真面目だらうが、動機は一つである。出力装置としての私の能力がそれほど高くないから、書かれたものが必ずしも(自分にとつてさへ)楽しいものではないことはある。といふかほとんど全部がさうかもしれない。それでも、オレはオレのために書いてゐる。他人が読んでどう思ふかは、究極的には関係がない。これも私がよほどの奇人変人でもない限り、他者を無視した電波文章にはなつてゐないはずだと願つてはゐる。他者に伝はらないものを書きたい訣ではないし、他者に伝へたい思ひもある。しかし、信頼するのは自分の感じる「楽しさ」のみだ。
そして、自分の感じる「楽しさ」の内に、いくらかは「真面目さ」「正しさ」といつたものが含まれてゐる。それはたまたまでも結果論でもなく、さうしたことに楽しさを感じたいと、ある程度は自分の意識をコントロールしてゐるからだ。結局のところ、「自分がどうしたいか」を抜いて「他者がどう思ふか」など考へられない。一方で、他者の視線や価値観抜きで自分といふものは形成されない。さういふもんだと、オレは思つてゐる。
以上、徹底的に自分本位の立場でものを考へてみた。この文脈だと『楽しい/楽しくない』の評価軸が最も重要といふのを否定するどころか全く肯定してゐることになるが、その意味合ひが大きく異なることは理解していただけると思ふ。ジャイアニズム万歳。
そして、この自分本位の立場でRIR6氏の論を読むと、なるほどこれが闘争的コミュニタリアンといふものなのだらうと、これについては大きく納得する次第。

追記

いえ、全く誤読などではなく鋭い指摘だと思ひます。真面目か否かは態度の問題。ネタかネタでないかは虚実の問題。だからこそ、私は「大真面目に書かれたネタもある」とも書きました。
それにしても、「真面目」と「マジ」を別の評価軸にするところに感服。