大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

mittyさんへの返答

id:mittyさんの「キーワードの秩序」に対する考へ方を示していただいて有難うございます。mittyさんが私と意見を同じくしてゐると判断された部分については特に異論はありません。ただ、その秩序だったキーワード空間といふものを正しく理解できてゐる自信が私にはありませんので、少しお付合ひ願へますか。

「キーワード空間の秩序」という言い方は、自然言語¥supset規約で区切られた言語空間¥supset「秩序だったキーワード空間」という構造を想定するがゆえに、規約上OKながらも「削除」が必要となるキーワードが存在するのではないか、という妄想を下敷きにしています。そして、あの言明は「規約で区切られた言語空間」=「秩序だった言語空間」と考えなければならない時期が来ているのかもしれない、という考えを表現したものでありました。「規約で区切られた言語空間」と「秩序だった言語空間」を仕切るものは、「キーワード作成ガイドライン」にあたると考えると分かりやすいと思いますが、現状ではもはやキーワード作成ガイドラインは意味を失っているという(http://d.hatena.ne.jp/mitty/20040618#p1)事実は誰もが認めざるを得ません。
「規約で区切られた言語空間」と「秩序だった言語空間」のスキマがもしもあるのならば、外側は「規約」で区切りがありますから、内側を明らかにすることによってのみ、それは見えてくるのだと思います。ゆえに、「秩序だった言語空間」の有り様*1を追求してみるのは、一概に無価値とは言えないのではないでしょうか。(もちろん、それを一歩進めて、「秩序だった言語空間」の押し付けが横行するようになるのは問題でしょうが。)

まづ引用文中の前段ですが、mittyさんはここで四つの「言語空間」なるものを提示されてゐます。自然言語規約で区切られた言語空間秩序だったキーワード空間秩序だった言語空間というものです。このうち後者二つは同一のものを指すを考へて構はないでせうか(問1)。それから、これら三つ乃至四つの言語空間はすべて「はてなダイアリーキーワード」といふ枠の中にあるものと考へて構はないでせうか(問2)。これら二つの問ひがいづれも「イエス」であるといふ仮定の元に以下の論を進めます。
私は形而上学的なものの考へ方に不慣れですので、自分の主張がその枠組のどこに当てはまるかを正確に言ひ表すことはできませんし、mittyさんの想定する構造が適切かどうかも判断はできません。ただ思ふことは、もしmittyさんが上記の中で最小の空間である「秩序だった言語空間」こそが「キーワード空間」のあるべき姿だとお考へなのだとしたら、それは私が想像してゐる「キーワード空間」とは随分違ふな、と思ひます。
空間といふ言葉を使つた時点で私にはもう形而下の具体的な空間しか想像できなくなつてゐるくらゐ形而上的な考へ方には弱いのですが、どうせだからそのイメージの中で話をしませう。
「キーワード空間」内にあらゆる雑多なキーワードが、自然言語のサブセットとして浮んでゐるのが私の持つイメージです。自然言語のサブセットですから、量的に個人の手に負へるものではありませんし、質的にもそれこそ玉石混淆です。それらをツリー型のデータ構造で分類管理するなどあり得ない話だと思つたから昨年六月の様な提言を行ひましたし、量的に手に負へないものの中から一つ二つを論つて消すの残すのと拘るあまりに高圧的な行動を取る人への抗議として昨年十月の様な論争をしました。いづれも昨日引用して提示したものです。まあそれはともかく。
で、私自身は、「キーワード空間」全体がどんなものであるかに興味はないといふか、どんな空間であるべきかとか空間内にキーワードがどう存在すべきかといつたことを、知的好奇心以外の部分で考へても仕方がないと思ひます。つまり「キーワード空間」中心の物の考へ方をしません。
「キーワード空間」中心の物の考へ方をしないといふのは、つまり私はあくまで日記を主体にキーワードを考へたいといふことです。日記に自動リンクの形で出現したキーワード以外は私にとつて直接関係のないものです。自動リンクが発生した時点で自分の日記といふ閉ぢた空間とキーワード空間との間に通路が生まれます。その通路から辿れる分岐の数は多ければ多いほど良いし、その道筋を誰かに指図される謂れはありません。もちろん「はてなダイアリークラブ」の様な楽しさうな「お誘ひ」があればフラフラ吸ひ寄せられたりするわけですが。で、空間内には、絶対自分が通らない様な道やむしろ近づきたくない道、誰かが私物化したらしい道、誰も通らず蜘蛛の巣まみれになつた道などいろいろあるわけですが、それが何だといふのでせう。明らかに危険な事故のもとになるのでなければ、放つておけばよい話だと思ひます。と、譬へ話に酔つてしまひました。だからダメなんですよ、書いてるうちに酔ひますから。
要するに、「リンクされるキーワード数は多ければ多いほど良い、そしてその中から自分に必要なものだけを選びたい」といふのが私の持つキーワードの理想の姿です。空間とかよくわかりませんが、シンプルな理屈でせう?
さて、キーワードが自然言語のサブセットである限り、「秩序だてること=ある体系に沿つて構築すること」が不可能であることは言ふまでもありません。これは仮令「名詞縛り」が有効なままであつたとしても同じことです。他人に対して「てにをはを正しく」「ら抜きは使ふな」「てゆーか禁止」「2ch語ウゼェ」「旧かなヤメロ」と強制しようにも無理なやうに、言葉の有り様を規定することはできません。できないと知りつつやろうとするのが無価値とは言ひませんが、他人への強制を伴ふ様であれば「それはやめといたら?」と思ひますし、できないと認識してゐない人に対してはかける言葉もありません。少なくともmittyさんは後者ではないと思つてゐますが。
もちろん、辞典の類がさうであるやうに、すでにある言語空間からある体系を見出して知識化することは可能です。はてなダイアリークラブの「リスト」関係はそれに着眼したものでせう。しかし、辞書は言語を規定しませんし、すべきではありません。私は「辞書に載つてゐるから正しい」式の考へ方には常に反対です。キーワードも同様で、プログラム言語を開発するのでもなければアプリケーションのためのデータベース作りを行つてゐるわけでもないのですから、体系に沿つたキーワードの構築などする必要はないのです。
私は「リスト::コンピュータゲーム関連キーワード」を作りましたが、その中で扱ひに困るキーワードは確かに存在します。しかしさうしたものは「扱ひに困りました、へへ」とばかりに放置しておけば他の誰かがうまく体系づけてくれるものと思つてゐますし、また誰の手に負へなくても構はないと思つてゐます。もしも「リスト中でうまく扱へないからこのキーワードはダメ。除外」とか言ひ出す様なことがあつたら、それはをかしなことでせう。そんな些事は放つておけばいいのですよ。それが些事でないなら、体系の方が間違つてるんです。キーワード全体についても同じだと思ひます。
それから、私は自然言語を統制しようとする動きに反撥するのと同様にキーワードの統制にも反撥を覚えます。自分が関らない(作らない・編集しない・日記内で言及しない)キーワードの存否に手を出すのは統制といふものでせう。一方で、正しい言葉を守りたいと思つて実践(できてゐるかはともかく)しようとしてゐるのと同様に、自分が作つたり編集するキーワードが「をかしなもの」にならない様に気をつけてはゐます。自分が関る以上、変なものを空間内に置きたくはないですからね。
以上が私のもつ「キーワード空間」のイメージです。付け加へれば、利用規約外のキーワードはこの空間には含んでゐません。そして、空間の内と外を分ける壁がはつきり存在するわけでもありません。ガイドラインがああしたものである以上、曖昧なものであることは仕方ありません。

違いがあるとすれば「リンクを切ったキーワード」の扱いにおいてでしょう。誰もキーワード全体に対し興味を持たなくなってしまえば、それをよいことにしたキーワードの私物化が横行したりするやもしれません。「クサイモノニフタ」という表現はそうした事態への憂慮を示すものであります。言えば分かる人もたくさん居ますから、言わないで済ませるのはもしかしたら損失になるのかもしれません。(一方、話しかけたがゆえに泥沼という事態も十分考えられますが。)それゆえ、完全に放置しても良いものか、ということについて、確信がもてないでいるのです。

先の譬へ話の中で少し触れましたが、多少の私物化があつたとしても放つておけばよいと思ひます。言へばわかるかもしれないといふ期待をもとに注意を促すことまで悪いと思ひませんが、「ダメなものはダメ」の一点張りで押し問答の末喧嘩を始めたところで得るものはないでせう。そこを指して「揉めたい人が揉める」とは言ひましたが、手の届く範囲での美化活動を否定したいわけではありません。私もその程度のことは時々やつてゐます。
完全に放置することはないにしても、キーワード全体について考へてゐるつもりが逆に視野狭窄に陥つてゐた、などとはよくあることです。といふか、決着のつかない揉め事の大半はさういふ状態にあると思はれます。「全体のことを考へてゐるつもり」といふのは実は危険な状態とも言へます*1から、関係者の方々には自分を見失はれない様お願ひしたいと思ひます。
上手く言へないのですが、本当に大切なのは「キーワードがどうあるべきか」ではなくて「自分自身がキーワードとどう関はるか」ではないのかと。

*1:ここから始まる個人攻撃がどれほど多いことか!