大和但馬屋日記

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3DCGの使ひ方

頭文字D 3rd Stage

ANIMAXで再放送してるので観た。以前に観た時、凄いと思つた。何年か経つて、改めて観たらどうかと思つたが、やつぱり凄い。基本的に原作通りの筋書で、なほかつテレビ版二作の話の続きといふことでストーリー的には初心者お断りだけど、映像、演出面で見るべきものは大きい。よく言はれる、CGとアニメの融合といふ話をするにも格好の題材ではないかと思ふ。その辺について書いてみる。
思へばテレビ版一作目が始まつた直後、深夜にリアルタイムで放送を観ながら、まるこす先生と電話ごしにグダグダ喋つたことがある。その時は、このアニメはダメだと思つた。CGとアニメの融合は当分の間無理だと。そこには映像のクオリティの問題と、テレビであるが故の演出方法論の問題が大きく関つてゐる様に思はれた。
頭文字D」を映像化するにあたつて、車のバトルを如何に描写するかが一番の肝となるのは言ふまでもない。時代性を考へれば3DCGを用ゐることも半ば必然といへるだらうが、果してそれで片付けてよいものかどうか。
3DCGを用ゐることで、作画の安定の問題はクリアできる。昔のテレビ版「サイバーフォーミュラ」を持ち出すまでもなく、レースを手で描くことが如何に難しいか想像するのは容易なことだ。一方で、観賞に耐へ得る3DCGを作るのはそれ自体が大変なことで、テレビ版一作目はまさにそこで苦しんでゐた。
絵的な問題はテレビ版「2nd Stage」でほぼ解消されたが、やはりテレビ故の演出の限界は感じられた。それは「キャプテン翼」問題とでも言はうか。まともに走れば十数分で終つてしまふはずのバトルが復数話にまたいで描かれることで感じられるタイムスケールのずれが、3DCGによつて強調されてしまふのだ。「キャプテン翼」の世界でサッカーゴールが地平線の彼方にあり、選手たちがまるで数百メートルもドリブルしてゐる様なデフォルメが、テレビ版「D」でもやはり行はれてゐる。秋名の峠にはいつたいいくつのコーナーがあるのか、榛名山の地図と見比べても絶対分らないほどの嘘が必要とされるのだ。その一方で車の走りそのものは3DCGならではの実時間に沿つた描写がなされる。そこに感じられる齟齬が、仕方ないこととはいへどうも割り切れなかつた。
「D」劇場版のよい所は、テレビの様な一話二十数分刻みの演出から解放された点にあると言つてよい。峠の上から下まで、本当にバトルを見てゐるかの様な、あるいは「街道バトル」で遊んでゐるかの様なリアルな時間の中にバトルを収めてゐて、観てゐて本当に心地よいのだ。背景もただ流れるだけの絵ではなく、おそらくゲームのコースの様に実地と同じスケールの道が用意されたのだらう。
この様に映像の中での時間と観客の時間が一致することで、この作品が3Dでなければならない必然性が生まれたと思ふ。コーナーを抜けるスピード、速い車と遅い車の差、挙動のバラつき方などが説得力を持つてくる。同じことを手描きで表現しようとしても、時間的な基準が存在し得ない以上は絶対に不可能だ。過去のあらゆるレースもののアニメが、どんなに名作と呼ばれるものでも車同士のバトルには説得力を持たせられなかったことがそれを証明してゐる。「サイバーフォーミュラ」の中ではレース中にコースアウトして口論をしたりピットインして茶を飲んでもなほ優勝争ひができてしまふ。観てゐる側も、絵的に何となくそれを許してしまふ。クライマックスで「行っけえー!」と叫んでレバーを押せば、バンクフィルムで必殺技が発動して、それで盛上ってしまふ、さういふものだからだ。それが悪いといつてゐるわけではないが、さういふアニメならやはり2Dでデフォルメをしまくるべきだと思ふ。
サイバーフォーミュラ」の3Dレースゲームが同人ものとか商品ものとかでそれぞれ存在するが、店頭デモをみるとどちらもやはり違和感がある。実時間の中でリアルなサーキットを淡々と走る車を見ても、それは世界が違ふだろとしか思へない。一方で、「頭文字D」はゲームがよく似合ふ。ゲームみたいなCGアニメだつたから、などといふ見てくれでは済まない理由が、上でぐたぐた書いた中にあるのではないかと思ふ。
以上、単純にセル画とCGのタイミングがどうといふ視点から離れて、3DCGをアニメで使ふ意味について考へてみた次第。