大和但馬屋日記

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フジツボ仮説

富士山の標高を知らない、あるいは聞いたこともないといふ人はあまりゐないだらう。3,776mだ。富士の姿を俯観するにはそれより高い所にゐなくてはならない。そんな場所は存在しないから、飛行機械の登場まで誰も富士の全容を上から見たことはないはずだ。ところで、史上初めて上空から宣士山を眺めた人は誰だらう。記録に残つてゐるのだらうか。気球といふ可能性もあるな。閑話休題
それほどまでに高い独立峰の富士山である。その姿を地上から見た人も実のところさう多くはない。少なくとも日本全国津津浦浦といふ訳にはいかないだらう。
話変はつて、フジツボといふ生物がゐる。戦後の漢字狩りの余波で生物の表記はカタカナでといふ決まりになつてゐるが、これはもともと藤壼と書くべきものだ。誰が見ても富士山によく似た形をしてゐて、成程昔の人はうまく名付けたものだなどと納得してはいけない。そもそも藤壼の藤は植物の藤なのだ。古来富士山を不二あるいは不尽などと書くことはあれ、藤と書かれた例はない。藤は藤原氏のシンボルであり、富士もまた山部赤人長歌短歌を筆頭に万葉集に数多歌はれてゐる。少なくとも奈良時代より昔から、それらの字は区別されてゐたということになる。
もちろんフジツボも例に洩れない。源氏物語の開巻が「藤壼」と題されてゐる*1如く、古くよりその存在は広く人々に知られてゐたはずだ。ではフジツボはなぜ藤壼なのか。答へはその外形ではなく、色にある。
http://www.saga-ed.go.jp/materials/edq01448/mituketa.htm
ごらんの通り、フジツボの中でも最もメジャーなムラサキフジツボの色は藤色だ。藤色の壺だから藤壼。安易だがシンプルで力強い。ムラサキフジツボなどと頭痛が痛い類ひの名付けをするとは、文明開化の悪癖だ。日本全国の海際にこの生物はゐる。富士山を見たことがなくとも、フジツボくらゐは見たことがあるだらう。美保の松原の海岸にだつてフジツボはゐたはずだ。
もう何が言ひたいかお分かりだらう。フジツボが富士山に似てゐるのではない。あの高い山がフジツボに似てゐると判断され、フジツボの山=富士山と名付けられたのだ。山の形は見た目から類推するほかはないが、フジツボの形は誰が見ても一目瞭然。どちらが先かは論を待たない。山頂からもうもうと噴き上がる噴煙は、食餌のために広げたエラを想ひ起こすに充分だ。
富士山を空から捉へた写真を見るにつけ、昔の人の想像力の確かさに感嘆せずにはをれない。

*1:日が変つたので注釈。この項はすべて出鱈目だが、中でもここだけは明らかな嘘である。もちろん正しくは「桐壼」。