大和但馬屋日記

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約束の朝に見たあの花の名前を僕たちは云々

何やら長つたらしい上に他と混つて憶えにくいタイトルの映畫を觀た。ええと、「さよならの朝に約束の花をかざろう」。うん、すぐ忘れる。映畫の内容は大變良かつた。凄く良かつた。とにかく良かつた。題名以外のすベてが良かつた。

筋立てとしては先づ御伽話なので、必要な時と場所に必要な人がちゃんと現れる。それは何ら問題にならないし、その必然性について話の中で説明する言葉も御伽話には必要ない。岡田麿里先生の書いたものとしてそこはトップクラスに良いところ。これが現代劇ならば別の感想にもならうが。

そんな御伽話には御伽話らしい題名があれば良かつたのに、何でよりによつて現代劇みたいな題名にしてしまつたのか。監督の名前で賣る爲に「あの花」を連想させる樣なタイトルを狙つて付けたつてところだらうが、そんなことをしても「あの花」の脚本家の「あの花」みたいな名前の映畫、としか憶えてもらへないに決つてる。それでいいの? といふ話。そして何よりこの題名、映畫の内容に全くかすりもしてゐない。さよならの朝に飾る花の約束なんてしてないし花は飾らないしそれらを匂はせる伏線らしきものもない。なのにこちらは題名といふ「前情報」を念頭に置いたまま觀てゐるから、ラストシーンに到るまで「あれ、花は?」みたいな餘計なことが頭に引掛ってしまつた。要するに題名の所爲で見終つた後の餘韻までぶち毀されてしまつた訣でここだけは本氣で惡いと言つておかなくてはならない。本當に、心から、題名以外は良い映畫だつた。

ただ、映畫は良いとして、自分みたいな中高年男がこの映畫を良かつた良かつたと言つてしまつて良いものかと、ちよつと背德感を抱へてしまふことは書き殘しておきたい。うまく表せないが、自分の中にあるトミノ的な部分がいたく刺激されてしまふのだ。映畫を觀てゐる間は畫面の中にアムロを見て、觀終へた後の自分の中にはシャアを發見してしまふ。どういふ意味でかは今は書かないでおかう。これを一言で表すインターネットミームもあるが、それを使つたらおしまひだ。

そんな訣で胸には刺さつた。しかしこれを良かつた良かつたと人に話すのは躊躇ひがある。さういふ大變良い映畫。