大和但馬屋日記

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言葉もニッチを奪ひ合ふ

「十」を「ジフ」と讀むのは漢字の讀みごと輸入したのだから仕方ない。本來の日本語とか關係ない。持つて來た時點で「ジフ」が日本語に「なつた」。「ジフ」は音韻としては「言ふ」と似てゐる。「言ふ」は發音が訛つて「ユー」になることがある。「十」が「ジュー」になるのと同じ。「十手」「言つて」は同樣に「ジッテ」「イッテ」。「ジュッテ」と同樣に「言つて」を「ユッテ」と讀むのは、日常ではさほど珍しくもないけれども、今のところは正式とはされない。まだ「いって」と書かれたものを「ユッテ」と讀む人が居る、程度。淘汰壓の力がまだ強いだらうから仲々定着はしないだらう。「十手」「十點」「十分」などは振り假名で「じって」「じってん」「じっぷん」と書かれてゐても最早「ジュッ〜」と發音する人の方が多いかもしれない。「十」がジフであるといふ教育が失はれたから、淘汰壓が働かなくなつたのだ。これは人工的な力による歸結にすぎない。

2007-05-16 - 大和但馬屋日記 略語はニッチを奪ひ合ふに嘗て書いたことに通ずるけれども、言葉の變化は生物の進化にも似た淘汰壓との戰ひである。「言葉とは本來かうであるからさうあるべき」といふのは淘汰壓の一つにすぎないし、實はそれほど強力でもない。一番強いのは文字に殘るもので、發音がどう移ろつても過去に書かれたものがすべて随時書換へられる訣ではないから、發音の基礎になるものは殘り續ける。言葉の所謂「正しさ」は文字によつて保存されるのだ。草が踏まれたり焼かれたしても根が殘る樣なものだらう。文字はそれ自體が遣傳情報なのだ。

日本語の場合は中國とも違つて漢字が日本語の發音をある程度覆ひ隠すから、時代につれて字音の保存はほぼ廢れてしまつた。その代表として例へば「十」がある、といふこと。「ジュッ」と「ジッ」の淘汰の爭ひは、讀みとして「じつ」と書かれた過去の文献が滅びない限り續く。しかしそれが「十」といふ漢字の讀みにすぎないので「ジッ」が「ジュッ」を滅ぼすことも當分の間はなからう。

「行く」「好い」「言ふ」など、「イ」が「ユ」や「ヨ」と相克する言葉は多い。それぞれにどちらが優勢かなど用例毎に違ひはあつて、最前線でのニッチ爭ひはいつまでも續くのだ。