大和但馬屋日記

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千早振る

實家を出て病院に向かはうとしたら前タイヤの空氣が完全に拔けてゐた。パンクといふよりチューブの老朽化らしい。チューブを交換した。今囘は大丈夫。母を見舞つてから京都方面へ。どこから電車に乘るかは未だ決めてゐない。

宇治川を渡る近鐵の澱川*1橋梁が面白くて冩眞を撮つた。今日はDP2と、sd Quattro HはK氏に借りた30mmレンズのみ。廣角レンズが欲しくなるシチュエーションだ。

この鐵橋、橋桁の線路部分に對してトラスの構造が異常に大きい。走る電車がミニチュアに見える程だ。何攻こんなに大きいかといふと、川の中に橋脚を立てずに、一本のトラスで川を完全に跨ぎきつてゐるからだ。列車が一編成丸ごと收まつてしまふ程の長さの橋桁を支へてゐるのである。この上で列車が離合することを考へると相當な荷重となる。そしてなんとこの橋、昭和初期の産物で今年で九十年にもなるさうだ。

この邊は京アニの御膝元、そして「ユ一フォ」の舞臺。ならば宇治川を遡つてみよう。今ならまだ紅葉も殘つてゐよう。

宇治橋。うまくなりたいうまくなりたいうまくなりたいの橋。てか「うまくなりたい橋」でネットミームになつてる。

http://pbs.twimg.com/media/DtYk67hVAAAoLTC.jpg

宇治から更に上流ヘ。なかなか好い感じに唐くれなゐに水くくるとは。龍田川ではなく宇治川だけど。程なくして天ヶ瀬ダムに着いた。「ユーフォ」では瀧先生の亡き奥方の眠る墓地公園の場所として登場。琵琶湖から大阪の淀川河口までの淀川本流としては唯一のダムである。

良い時季に來られたと思ふ。更に更に遡り、京都府から滋賀縣に入ると川の名前が宇治川から瀬田川に變る。國を跨ぐと川の名前が變る例はどのくらゐあるのだらう。自分は他には千曲川信濃川くらゐしか知らないけど、色々あるのだらうきつと。

瀬田川に變つた邊り。山深い樣でさうでもない樣な空間。道も特に上つてゐる感じはない。道路が左岸から右岸に移り、兩岸が開けると同時に川幅も廣くなると南郷洗堰が見えてくる。ここまで來るともう「琵琶湖に着いたー」といふ氣持になるが、湖はまだまだずつと先である。

石山寺驛で痛電のメッカ、京阪石山坂本線と合流。長いこと「ちはやふる」電車が走つてゐる。宇治の紅葉を見て龍田川の歌を思ひ出したら石山寺でオチがついた。「ちはやふる」はアレか、かるたの會が石山寺で行はれる縁か。知らんけど。そこから少し進んで石山驛でサイクリングは終り。

石山寺驛に居た痛電が追付いてきた。ここで輪行して新快速に乘り、眞直ぐ歸宅…と濟めば良かつたのだが。輪行バッグの自轉車を置く爲に新快速の先頭に乘つてゐたら、彦根驛への進入時に手前の踏切で「バキッ」と音がした。嫌な豫感しかしない。案の定、驛手前で緊急停止。

聞えてくる運轉士の司令所への報告に曰く、踏切に取殘された自轉車と接觸した。既に驛停車への減速中であり、目視した時點で爲す術はなかつたと。警察が來て事情聽取が始まつた樣だ。現場檢証の爲電源が落される。自分の足下で鳴つた音で何が起きたかを想像すると遣る瀬ない氣分になるがどうしやうもない。他の乗客や沿線からのツイートを見ると買ひ物歸りの自轉車に積んであつた荷物が散亂してゐる樣だが、人については特に何も書かれてゐない。大事でなければよいが。

停車してから五十分後にやうやく運轉が再開され、やつと歸途に就くことができた。米原で大垣行に乘るのも面倒なので新幹線に乘換へたよ、流石に。後で調べたら、踏切を渡れなかつた人は怪我で濟んだ樣だ。無理な横斷はしないで頂きたい、本當に。

*1:よどがは