「ぼくらの七日間戦争」がアニメ化と聞いて思ったが、誰かが「昔は主人公が反体制なのがかっこいいとされていたが、今では体制側に立つのが基本になった」と言ってて、確かに、昔は「学校への反抗」がヒットしたが、今は逆に「学校を守るため」アイドルになったり戦車に乗るお話が大人気だからなぁ。 pic.twitter.com/1pmFo4Y4FA
— SOW@新刊発売中 (@sow_LIBRA11) 2018年5月6日
何だか胡亂な考察が續くが、ちよつと待つた方がいい。「ガルパン」にしても「ラブライブ!」にしても、體制側か反體制側かなんてのは物語の動機付け「ですらない」ただの方便だといふ視點を忘れてはならない。どちらもア二メで團體競技としての戰車戰やアイドル活動を描きたいといふのがその本分であり、登場人物がその目的にのみ忠實であつたからヒットしたのだらう。學校を守る云々はただの味付けでしかない。
閉鎖社會の枠組みの中における自分たちの在り方を問ふのが目的の作品であれば戰車やアイドルの方がただの味付けになつてしまふ。その手の扱ふ題材が何であれ結局「社會と個の在り方」の話になつてしまふのは昔の作品で散々やり盡されたので、「ガルパン」や「ラブライブ」の樣に扱ふ題材そのものに魅力を見出す形の作品づくりがそれらへのアンチテーゼとして受けたのだと見るのが妥当だ。
「ガルパン」最終章に到つては、話の動機付けは「桃ちやんの留年阻止…ぢやなかつた…大學合格!」である。最早學校の存續といふレベルですらなくなつてゐる。ただ戰車に乘る爲の話に最低限の「負けられない理由」を與へただけ。その程度のものだ。勿論、話を盛上げる爲に、例へば桃ちやんが進學を諦めかけて「私なんかの爲にこれ以上無茶をするな」といふ樣な展開は今後有り得るだらう。もしさういふ話になればそのシーンの前後はさぞや緊迫感とカタルシスに滿ちた戰闘が描かれるに違ひない。さういふエンタティンメントだからだ。體制だの反體制だのなんて生煮えの思想を語る道具ではない。
そもそもガルパンは「學校を潰さうとする文科省といふ體制との戰ひ」であり、かつ學校そのものは居場所としての機能しか語られてゐない。教師の描冩はほぼ皆無*1で、學園の運營は微に入り細を穿つが如く全てに及んで生徒の手によつて行はれてゐるではないか。これを以て反體制がどうとかいふ感想によく乘つかる氣になれたものだなと思ふ。
*1:第一話で聲のみが僅かに出てゐる