大和但馬屋日記

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バズワード化したポリコレ

ネットのどこかで「オタクは何かとポリコレ批判をするが、ポリコレがオタクを差別から守つてやつたのに、ポリコレがなかつたらオタクはひどい差別に晒されることになるがそれでいいのか」みたいな話をする馬鹿者が居て閉口する。これの何が酷いつて、そもそもポリコレが何なのかさつぱリ理解できてゐない。ポリコレを「道徳的に正しい」などと勘達ひしてゐるから根本的に話がをかしいのであつて、ポリコレとは「政治的に正しい」であるから道徳的な正しさとは相容れないものなのである。
アメリカのWASPの道徳が黒人や移民を差別し、男性中心主義社会の道徳が女性やその他ジェンダー問題を起し、ハンディキャップ持ちやあらゆるマイノリティが舊來の「道徳」によつて抑壓を受けてきたからその解放の爲に新たな表現でもって中立を掲げる、その爲には舊來用ゐられてきた文化的表現の一切を否定することをも厭はないといふのがポリコレの本質である。
「オタク」といふ言葉はそれ自體が差別的な含意で生れたものであるから、ポリコレ的な力が正しく作用するなら眞先に消されて中立的な表現に置換ってゐるべきものであるのに、あらうことかリべラルを自稱する馬鹿は何も考へずに「ボリコレがオタクを守つてきた」などと明らかに矛盾したことを言ふ。要するに自分が何を言つてゐるのか、自分で理解してゐないのだ。呆れるより他にない。
そんな論爭を横目に「セントールの惱み」を觀てゐたら、ポリコレが行届いた末のディストピアじみた社會の姿が描かれてゐて臺詞ひとつ、所作ひとつ氣を拔いて見る訣にもいかず大變疲れた。自稱リベラル共はこんな作品があることも、それが何を描いてゐるかも知ることなくポリコレ棒を振囘し續けることだらう。