大和但馬屋日記

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片隅とガルパンと

所謂「意識高い系」の中でも政治的な主張をよくする人程、気に入らない意見に對しては反射的にブロックする。さういふ人等の望む社会なんてどうであれろくなものではない。

さて、茶屋まで走つて「この世界の片隅に」十一回目。同じ構圖が繰返し用ゐられてゐるカットに注意してみた。主な舞臺となる北條家の中での同一構圖は措くとして、江波周辺での意圖的な同ポジの多用はそれ自體が時間經過を物語る語り口となつてゐて印象深い。意外なカットが同ポジになつてゐて、それが子供のすずさんと大人のすずさん、かつてそこにあつた街と失はれた街の對比となつてゐることにも氣付いた。まだまだ嚙むだけ味の出る河豚の鰭である。

その後、引續いて「ガールズ&パンツァー劇場版」の復活上映を觀賞。劇場で前に觀たのは昨年の秋、TV版一擧と併せての時が最後で、その時既に「この世界の片隅に」の二囘目も同時に觀てゐたのだから全然久し振りでも何でもないな。何度觀ても中央廣場の最終決戰は絶品だ。特にメグミとアズミのパーシングが屠られるまでの、劇伴もなくただ淡々と效果音のみで進行する展開が堪らない。TV版の最後にあつた様な臺詞による盛上げもなくサイしント映畫の様に、しかし爆音だけは盛大に轟かせて描き盡すバトルは日本のアニメCGの一つの金字塔だらう。

勿論ただのフルCGで賄へない部分のあちこちには手描きの技が光つてゐる。「富士山」中腹のセンチュリオンの足元にティーガーの砲撃の彈着の煙が上り、返す刀のセンチュリオンの砲撃によってその煙が吹き拂はれて霧消する。こんなのはCGではまだ描けない。

最後に四號とティーガーが「富士山」麓で左右に別れ、右に進んだ四號を後ろから前にカメラが追ひながら囘り込み、再びカメラを追越した四號が驅け上つて頂上で再度ティーガーと合流、頂上からセンチュリオンを見下すまでの一カット。まさにCGでしか描けない極上のカメラワークの中で、みほだけは全て作畫なのだといふ。顔の見えるフレームだけかと思つたら、全部手で描いたらしい。成程さうでなくてはこの繪は出來ないだらう。素晴しい。何度觀ても素晴しい。