大和但馬屋日記

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AT-Xで「この世界の片隅に」のCMを見かける樣になった。株式會社エー・ティー・エックスは製作委員會の一員なのだからもつと推してもよいと思ふのだが、どうも及び腰に思へる。
この世界の片隅に」が反戰映畫であるとか、さうでないとかで押問答をしてゐるのがネット上に見える。自分としてはさういふ視点でしか映畫を評價する術を持たないことが、この映畫の語り盡せない内容に對してそもそも貧しいなあ、としか思へない。この映晝が描いたのは一つの「架空の現實」である。變な言囘しであるが、とりあへずさうとしか言ひ様がない。であれば作品から引出されてゐるのは「現實」に相對した時の自分の反應なのであり、反戰か否か等はそちら側の領分に含まれる話だ。それあこの映畫を觀て「戰爭は嫌だなあ」と思はない人もさうは居ないだらうが、そんなことを言ふ爲に態々時間と勞力をかけてこれほどの漫畫やアニメを作る者があるか。
この作品が主眼を置いてゐることは別にあつて、劇中の様々な人の口を借りて語られてゐる通りで、何なら作品のタイトル自體が言つてゐる通りでもある。野暮を承知で書き表すとそれは「居場所」である。子供の頃から大人になつてまで何かと迷子になりがちなすずさんが、知る人やら見知らぬ人々やらの手により何度も何度も居場所を奪はれさうになり、あるいは居場所を失ふ樣を見届けつつ、自ら居場所を選び取り、遂には居場所を與へる樣になるまでのお話。
日本のアニメ作品において、ちよつと眞面目に肩肘張つたものを作らうとすると若者のアイデンティティの確立といつたものがテーマとなる。例へば「エヴァンゲリオン」がさうであつた樣に。あるいは「カレイドスター」を成功させて以降の佐藤順一監督作品のほぼすべてがさうである樣に。何かを爲し遂げることは主人公の存在肯定の爲の方便であるかの如き話がこの二十數年間はとみに目立つ。「この世界の片隅に」も明らかにその文脈の上に乘つてゐる様に見える。しかし本作においてはすずさんがただ存在を周りに肯定されて終るのではなく、自らがさうと決めた居場所を「與ヘる」側に立つところが何より際立ってゐて、そこに舌を卷いた。
よく引合ひに出される「火埀るの墓」が、清太と節子が世の中から居場所を失つたまま終にそれを見出せなかつた物語であると考へると、當作はただその正反對であると捉へるだけでは足りないと思ふ。清太と節子と晴美とヨーコは同じ海岸線の東の方と西の方に居て、すずさんはやつとその中の一人に居場所を與へることができたのだ。これはさういふ物語。
居場所を得るまで迷ひ、ぶつかり、奪ひ、奪はれ、やつとそれを得て、失ひ、取戻し、人に與へる。それが人の営みであり、國の営みでもある。近代の國際社會の、そしてその中の日本の近代化の歩みそのものでもあるとも言へよう。戰爭はヨクナイデスネといふのはすずさんが呉に嫁にも行かずに江波でぼんやりしておけば良かつたといふのと變らない。呉になんか行かなければ。あそこでああしてゐればかうしてゐれば。そして廣島に殘つてゐれば、そこには別の試練があつたことだらう。
すずさんのやりきれない慟哭はそこが心で繋がつたが故のものであるから、文言が原作漫畫から改變されたことなど些細なことでしかない。何よりあのシーンで描かれた重要なものといへばカットの終りですずさんが目にした南瓜の花である。焼夷彈の撤散らかしたナパーム劑で荒れ果て枯れ盡した段々畑に咲き殘つた一輪の南瓜。
原作漫畫にもちやんと描かれてゐるからその意味するところは疑ひ様もないところだが、映畫ではその後を膨ませてオリジナルのパートを加へてゐる。義母がこつこつ溜めた白米を炊き、周囲の家々からもタ餉の煙が立ち、夜に窓明りが燈るのを驅逐艦の水兵が眺める。ここまで丁寧に描かれたものには目もくれず、言葉として發せられた働哭の文言にばかり囚はれて議論などしたところで得るものなど何もない。
この世界の片隅に」といふ題名がこの映畫なり漫畫なりの本質をどれだけ深く突いてゐるかを思へば、映畫においてそれを殊更に臺詞としてすずさんに言はせたのは少し野暮つたい感じもするのだけど、言葉として發して尚届かないものなのだなあと思ふ。自分も二囘見てやうやくさういふ事に氣を囘せた。この作品はまだまだこんなものではない筈だ。