大和但馬屋日記

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自称yms-zun

yms-zunといふのはものすごく定義が曖昧な言葉で、自分が観測してyms-zunだな、といふものがyms-zunと考へるほかない。「何かあのあたりの訣の分らないサイトの人」を便宜的にひとくくりにするマクロとして主に使つてゐる。述語としてつかふことは稀。まして他人に対して「ワシつてyms-zunなんすよ」といふのは、意味がわからない。
「Aさんはyms-zunです」とBさんが私に説明して、それで「さうなんだ」と思ふことはある。このときわかることは:

  • ああAさんといふ人はBさんにとつてはそのやうに認知されるやうな振舞ひをしてゐるのだな
  • ああBさんといふ人はAさんくらゐの振舞ひを「yms-zun」と定義する感覚を持つてるんだな

といふこと。そのへんのスレショルドを共有してない、よく知らない人に「ワシつてyms-zun」(=私は私が定義するところのyms-zunである)と言はれても、よくわかんないつすね。


以上、好きな言葉に置換へてみたけど、本当によくわからない。
まあそれはそれとして、「自分ゲームが好きで暇があつたらゲームばつかりしてるんすよ」を約めて「自分ゲーマーなんすよ」といふくらゐ別に構はんのでは? と思ふ。そこにナルシスティックな匂ひを感じるかどうかは人を見て判断。あるいは「お前程度がゲーマーを自称するなど笑止」といふ優越感ゲームに持込むか?

  • セルフプロデュースと他者の評価には多少なりとも乖離があるもんだ
  • 自分のことを苗字や名前で呼ぶのをどう思ふか

あたり。「ヤザワぁー、ロックが好きだからさー」といふのを聞いても「ああそれはワシが好きなロックとは全然別の何かですね」と感じるアレとか。いや、矢沢さんは押しも押されもせぬロックだと思ひますが(何かの予防線)。
もひとつ予防線。別に自分をゲーマーと思つてるから琴線に触れて噛み付いた訣ぢやないつすよ。などと書いたところで他者にどう読まれるかは分つたものではない。事実としてあるのは書かれたものとそれを見た読者。