大和但馬屋日記

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何を語り得るか

その本を読んだ訣ではないけれども、その感想を読んで思つたこと。
裁判の場では勿論のこと、例へば街頭で突然テレビカメラとマイクを突きつけられた時、あるいは不本意な事件に巻込まれて記者会見の場に立たされたとき、または突然警察に引張られて訊問を受けたとき。オレはどこまで冷静に振舞へるだらうか。
つい先日、仕事の関係でカメラに向つて喋る機会があつた。テレビに流れるらしい対談形式の場では、それなりにイメージどおりに話すことができたと思ふ。しかし、カメラそのものを見て話さなくてはならないところで、何度もリテイクを出されてしまつた。やり直すたびに、最初話さうとしてゐた内容がボロボロと抜け落ちた要約のやうになつてしまひ、「最初に話してゐたことをお願ひします」と言はれて「何を話しましたつけ?」と逆に問返す始末。我ながらみつともない。かういふのは場数を踏まないとどうしようもないし、そもそも場数を踏むやうな生き方を普段してゐない。
だから、昨年あたりからよく見かける、何某かの事件や事故に巻込まれた誰かの家族などがテレビに向つて何かを訴へる様といふのは正直いつて見てゐられないし、その言葉をまつたく真実のものとして聞く訣にはいかない。さうしたニュース映像を見て盛上るネット言論などを見た時には反吐が出る思ひですらある。逆にカメラに対してやたらと辯の立つ「素人」の言ふことも、それはそれで信用ならんと思へてしまふ。
ある種の極限状況に置かれてなほ自分の言葉を語れるほど、すべての人間が強い訣ぢやない。
関係ありさうななささうな書評三鷹事件 1949年夏に何が起きたのか(片島紀男,新風舎文庫) - 大和但馬屋読書日記 - bookグループ