大和但馬屋日記

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AIがたまらない

ギャラクシアン(PS,namco)

今日はひたすらナムコミュージアム版。やはりファミコン版ほど点数が伸びない。悔しい。


ゲームにおける敵キャラクターの行動を決めるアルゴリズムとそれに付随するデータの塊を,不遜なことにAIなどとゲーム業界では呼び倣はしてゐる*1。しかしまあ,ギャラクシアンの敵の動きを見てゐると,たしかに単純な中にも小癪な思考が働いてゐる様な気がしてならない。
またまた比較の槍玉に挙げて申し訳ないが,「スペースインベーダー」の敵の動きにはさういつた要素は感じられない。ていふか感じるも感じないもなくて,そもそも思考と呼ぶに値するアルゴリズムは組み込まれてゐない。敵の動きはただ隊列が端まで動けば一段下がる,の繰返しだ。左に行くときと右へ行くときで移動速度が微妙に異なるといふのは思考でもなんでもない。弾の降り注ぎ方は完全にランダムだし,UFOのボーナス点は「自機の何発目の弾で倒したか」によつて決まるといふ自動販売機の当て物レベルの法則だ。「スペースインベーダー」は「脱ブロック崩し」がコンセプトだつたといふ話は有名だが,これらの点を考へるとゲーム性の根つこの部分はブロック崩しと変らないと思ふ。
さて,「ギャラクシアン」で今のところ気に入つてゐる遊び方は,敵が隊列から離れた瞬間を狙ひ撃つといふもの。降下体勢に入る前に仕留めておけば安全だし,展開も早い。なほ,誤射を除いて隊列そのものを撃つことは禁じ手としてゐる。得点効率が悪いし,何より面白くない。
で,敵の出鼻をくじく方法だが,これを実行しようと思ふと「次にどの敵が隊列を離れるか」を読まなくてはならず,さうすると「ギャラクシアン」のロジックが如何に優れてゐるかを実感させられる。
もちろん,法則は単純だ。大まかに言つて,右か左の広く開いた方の,一番端の列の上から順に飛来してくる。これだけだ。しかし,隊列は常に左右に動いてゐるから,「ここ」と思つて待ち構へてゐるとしばしば読みを外される。読みを外されて隊列の反対側から飛来してくる奴は,当然自機とのX座標の差が大きくなるから,降下する軌道も横に大きくなつて打ち落としにくい。待つてゐる側ならばほとんど真下に降下してくるので少々狙ひが外れても対処しやすい。たつたそれだけのことが,心憎い。全体が精緻に,ロジカルに出来上がつてゐる。このゲームの紹介に必ず出てくる「サインカーブを描いて降りてくる敵」などといふのは最終的な出力結果にすぎず,そこに至るまでのロジックがゲームの面白さを決定してゐるといふことだ。例えばこのゲームには基本的にランダムな要素はない*2。自機の左右の移動と,敵を撃ち落とすタイミングを毎回完全に同じにできれば,毎回同じゲーム展開にすることができるはずだ。しかしそんなことは無理なので,いはゆるパターンゲームにはならない。自分のとつた行動に対する責任として,「読み」を働かせなくてはならない。ここのところが絶妙だ。前に触れた通り,敵と自分が対等の関係にあるが故の奇跡の様なバランス。
これに気付いてしまつたのだから,もう「ギャラクシアン」から離れられない。1979年の時点でこの様なものを作り上げてしまつた当時のナムコは,やはり賞賛されて当然だつたのだと思ふ。
似たような美しいロジックに支へられたゲームとして思ひ付くのは「ロードランナー」と「セガテトリス」「同コラムス」くらゐだらうか。しかしいづれもランダム要素はあるのだ*3。「パックマン」も同様だが,こちらはガチガチにパターン化されてゐることを知つてしまつてゐるために,個人的にどうも入り込めない。
念のため。別にランダム要素がゲームの仕様に組み込まれてゐることが悪いと言つてゐるのではない。それを排除することによる美しさもある,といふことを強調したいだけである。


かういふことを肴に話ができるのはやはり古いゲームばかりになつてしまふなあ。オレは以上の様な話をもとに「ゲーム性」なるものの存在を強く信じてゐるが,今それを口にするとなんだか胡散臭く思はれてしまふ。それがどうにも悔しい。
実際,さういふ部分に注意を払つてゐない(払はなくてもいい)ゲームが多くあるから仕方がないのだが,全部が全部さうといふわけでないことだけは忘れずにゐたいものだ。

*1:せめてロジックくらゐにしておけばよいものを

*2:敵が宙返りするか否かだけはどうも法則がわからない

*3:テトリス等の「電源投入後のブロックの落ちる順番は決まつてゐる」といふのは除外したい